意根の作意は、第一にその習気の慣性に依拠して、しばしば現れる比較的よく知っている法に対して習慣的に注目し、作意しやすいこと、第二に意根は目的もなく漫然と作意することがあり、これは散乱・攀縁の習気によるものであること、第三に意根は興味のある法に対して作意を生じやすいこと、第四に意根は重大で重要な法に対して作意を生じやすいこと、第五に意根はある種の法に対する貪愛のために作意を生じること、第六に意根は瞋恚などの煩悩のために作意を生じること、第七に意根は自分に必要な法に対して作意を生じること、第八に意根は突然現れた法に対して作意しやすいこと、など挙げればきりがない。
意根が作意した後、触・受・想・思の心所が現行しないこともあれば、思心所がなく、意根が何をすべきか決定しないこともあり、想心所が現行せず、意根が所縁の法を執取しないこともあり、受心所が現行せず、意根が感受を望まず、所縁の法に興味を持たないこともある。最初の段階では、前の心所が現れなければ、後の心所も現れる必要がないのである。
慧解脱の阿羅漢が命終する時、意根は三界に対してもはや貪着せず、作意せず、見法を抉択せず、法を見ようと欲せず、造作しようと欲しない。五遍行心所法が現行しない時、意根は必ず滅する。だから意根が作意・触・受・想・思を行わなければ、如来蔵は法を生じることに協力せず、意根が三界に対して欲と念をなくせば、必ず作意・触・受・想・思を行わず、識心はもはや運行できず、五陰の機能が起こらず、こうして意根は滅するのである。意根に心念があり、欲があり、三界の法に対して攀縁性がある限り、五遍行心所法はずっと運転し続け、意根は滅することができず、五陰十八界はずっと生じ続け、衆生は三界の中で生死を繰り返して絶えることがない。
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