修行が絶えず深まっていくにつれ、定慧がますます具足されてくると、意根は次第に強大になっていきます。意根が強大になった証は、転識成智であり、心所法が転変したことです。意根の強大さは心所法の強大さを表し、心所法が強大になれば意根も強大になり、無堅不摧(何ものにも打ち勝てないほど強く)となり、五遍行と五別境、善十一心所法を具足し、煩悩心所法はとっくに完全に断除されており、おそらくまだごく軽微な煩悩習気がいくらか残っていたり、軽微な法執がいくらか残っていたりする程度でしょう。意根が一定のところまで強大になると、六識に取って代わり、六識の助縁を必要とせず、単独で六塵の境界を了知できるようになり、粗いものも細かいものも問題ではなくなります。このとき、大いなる神通が顕現してくるのです。
<h2 style="text-indent: 2em;">意根の作用は同じでも心所法は異なる</h2><h3 style="text-indent: 2em;">問:人と人との意根は、その機能・作用は同じでしょうか。六道の衆生の意根は、その機能・作用は同じでしょうか。凡夫の衆生と聖賢の人の意根の機能・作用は同じでしょうか。畜生と人との意根の作用は同じでしょうか。</h3>答:すべての衆生の意根の機能・作用は同じであり、異なるのは心所法であって、含まれている無明の程度が異なり、明の程度が異なるため、作用を起こすときに、良い作用と良くない作用との区別が生じるのです。たとえば、すべての刀には切断の作用がありますが、刀の利き鈍きが異なるため、削り出したものの効果が異なります。利刀が削り出したものは完璧で整然として価値がありますが、鈍刀が削り出したものは整っておらず、使えず、あるいは物を壊してしまうこともあり、良い効果がありません。意根の智慧が異なれば、成し遂げられる事業も異なり、煩悩が異なれば造作する業行も異なり、果報も異なってきます。無明の軽微な意根は善く用いることができ、無明の深重な意根は悪く用いることになり、その結果には大きな差が生じます。意根の無明の程度が異なり、明の程度も異なるため、世上の衆生は三六九等に分かれ、凡夫と聖人との区別があり、衆生が成仏する時劫も異なってくるのです。
人それぞれの差別は、意根の心所法の差別によって引き起こされるものなのです。認めようと認めまいと、これが事実です。事実は、あなたが認めるか否かなど関わるでしょうか。事実は誰が認めるか否かなど意に介さず、永遠に変わることはありません。真理は、たとえ娑婆世界にそれを認める人が一人もいなくても、永遠に真理であり続けます。他人が認めないからといって、真理でなくなることはありません。真の仏法は、誰が誹謗しようとも、仏法は仏法であり、真理は真理なのです。
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