原文:须菩提。若有人以满无量阿僧祗世界七宝。持用布施。若有善男子善女人。发菩提心者。持于此经。乃至四句偈等。受持读诵。为人演说。其福胜彼。
解釈:須菩提よ、もし誰かが無量の阿僧祇の世界に満ちる七宝を、ことごとく布施 (dāna) に用いるならば、そのようにして得られる福徳はきわめて広大なものである。ところが、もし善男子・善女人が大乗の菩提心を発し、この経を修持し、あるいはこの経の中の一つの四句の偈であっても、自ら受持読誦するのみならず、衆生のために演説することができるならば、この善男子・善女人が得る福徳は、無量の阿僧祇の世界の七宝を布施した人をはるかに超えて殊勝なものである。
阿僧祇とは、インドの言葉で、非常に多い、数えきれないという意味を表す。阿僧祇の世界とは、数えきれない無数の三千大千世界のことである。もし誰かが一つの小世界の中の七宝を布施したならば、その福徳はすでに思量 (manasikāra/manana) しがたいものである。まして三千大千世界の七宝を布施するならば、その福徳はなおさら思量しがたいものであり、ましてや数えきれない三千大千世界の七宝を布施するならば、その福徳は想像し思議できるものであろうか。まったく思議できないものである。ところが、別に一人の善男子あるいは善女人がいて、大菩提心を発し、仏道を円成したいと願い、かつ広く無辺の衆生を利益しようとする。このような善男子・善女人が金剛経を受持読誦し、如来蔵 (tathāgatagarbha) の成仏の法を修学し、自ら完全にこの経の如来蔵を受持し証解することができ、さらに他の縁ある衆生のために開示演説もできるならば、その得る福徳は、無量の阿僧祇の世界の七宝を布施した人の得る福徳よりはるかに殊勝なものである。
なぜそう言えるのか。真に金剛経を受持読誦できる善男子・善女人は、すでにみな般若 (prajñā) の実相を証悟した大菩薩であり、真に福徳と智慧を具えた人であるからである。彼らは自ら福徳と智慧を広く具えているだけでなく、他の衆生を教導して金剛経を受持読誦する大福徳と大智慧を得させることもできる。それゆえ、彼ら自身の福徳と智慧はまた増長していく。彼らの智慧と福徳が極限まで増長し、円満に達したとき、福慧両足尊となり、天人師となり、仏世尊となるのである。
それならば、阿僧祇の世界の七宝を布施して得られる福徳など、何ほどのことがあろうか。これらの世界も七宝も、みな有為有相の生滅相 (utpāda-nirodha-lakṣaṇa) の法であり、みな金剛心 (vajra-citta) の心中の物であり、みな自性の摩尼宝珠の中のほんの一部である。金剛経を受持読誦する善男子・善女人は、この摩尼宝珠を証得し、この摩尼宝珠を所有することになる。それはすなわち阿僧祇の世界の七宝を所有することに等しく、同時に未来の無量の阿僧祇の世界をも所有することである。この福徳は、当然のことながら、阿僧祇の世界の七宝を布施した人をはるかに超勝するものである。
原文:云何为人演说。不取于相。如如不动。
解釈:金剛経および四句の偈を演説し、如来蔵の妙法を開演する善男子・善女人は、どのように人のために演説すべきであろうか。四相なく、内なる心においていかなる法相も執着せずに演説すべきである。しかも一切の法相に対して、如如不動であり、法相を実有と見ず、心が外境の法相に随って動転することがなく、如来蔵のように清浄 (viśuddha/pariśuddha) 無染であり、相に取着せず、心念も起こさず、境に対して心なく、如如不動であるべきである。
菩薩たちは如来蔵を証悟した後、ますます多く如来蔵の清浄無為の性を観察し、同時にますます多く一切の有為法の虚幻無常の性を感知できるようになる。菩薩たちの心は次第に有為法に対して意楽を生じなくなり、如来蔵の清浄無為の性に向かっていく。菩薩たちは次第に、三界世間の一切の有為法相がみな如来蔵より出生し幻化されたものであることを観察する。それゆえ次第に世間の一切の法相を執取 (upādāna) しなくなり、一切の法に対して、心も次第にそれに随って動転しなくなり、最後には如如不動に達し、如来蔵の無為の性に類するものとなるのである。
原文:何以故。一切有为法。如梦幻泡影。如露亦如电。应作如是观。佛说是经已。长老须菩提。及诸比丘。比丘尼。优婆塞。优婆夷。一切世间天人阿修罗。闻佛所说。皆大欢喜。信受奉行。
解釈:なぜ人のために金剛経を演説するとき、相に取着せず、如如不動でなければならないのか。一切の有為に造作された法は、みな夢のようであり、幻化のようであり、水泡のようであり、影のようであり、露のようであり、空中の稲妻のようであるからである。每位の菩薩は、世間の一切の有為法に直面するとき、このように観照し、このように一切の有為法を見なさなければならない。世尊がこの金剛経の開示を終えられた後、当機者である長老須菩提、およびすべての比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆弟子、さらに一切世間の天人と阿修羅は、仏の説かれた法を聞いて、みな大いに歓喜し、信受奉行した。
世尊は法会の終わりに際して、殊勝な四句の偈を開示され、一切の有為法の虚幻不実の性を説き明かされた。すべて虚幻不実であるがゆえに、菩薩たちはもはやいかなる有為法をも憂い執取する必要はなく、有為法に随って動転することもない。夢の中において、われわれが夢の中の一切の人・事・物・理をどれほど執取し、それに随って動転し動揺し、業行を造作しようとも、最終的には結局まったく何もなく、半分たりとも執取できないのと同じである。誰も夢から何かを得たことはない。ならば、いたずらに心を労して何の益があろうか。
一切の有為法はみな、如来蔵が縁に依って幻化したものであり、魔術師が意念によって成じた一切の人・事・物が、突然虚空の中に顕現するのと同じである。しかし魔術師が意念を収めるとき、一切の人・事・物は終わりに空無に帰する。何を苦労して把捉しようとするのか、いたずらに心を役使して何の益があろうか。一切の有為法は、みな如来蔵という大海から出生した泡であり、如来蔵の大海の中で泡は生じては滅し、生じては滅する。三界世間のすべての人・事・物・理は、海水の中の泡のように、生じては滅し、滅してはまた生じ、生滅はことごとく大海に帰する。なぜいたずらに泡を執取して、大海を見ないのか。
一切の有為法は、月の影が千万の河や海の中に落ちるのにも似ている。あるようでないようであり、あるように見えても、掬い取ることはできない。凡夫だけが、まさに痴の猿のごとく、手を執って掬おうとするが、空しく物は何もない。菩薩の智者は、智慧の眼をもってこの影を観照するが、何を捉えられるというのか。一切の有為法は、朝露にも似ている。朝日が昇ると、瞬く間に消え去り、速やかに生じ速やかに滅して、何を執すべきというのか。一切の有為法は、また雨の中の電光雷鳴にも似ている。刹那の間に虚空を過ぎ去り、瞬時にして蹤影もなく、あなたが驚魂の定まらないうちから、あなたが驚恐万状のうちから、すでに消え去り、影も形もない。
世尊は教えて言われる。菩薩たちは悟りの後、常にこのように観照すべきである。そうすれば自心は清浄となり、執着も取着もなく、一塵にも染まらず、一法にも執着しない。こうして本心の真如に相応し、真如に随順すれば、無上菩提を成得することができる。この執着なく取着せざる心をもって、衆生のために金剛経を演説し、諸々の衆生を度して、ともに幻塵を出で、ともに幻影を滅し、ともに諸仏の大智慧海に入り、ともに諸仏の一切種智 (sarvākārajñatā) を円成するのである。
このように金剛経を受持読誦し、如来蔵の法を演説するならば、その福徳と智慧は、世間の衆生において、誰が比べられようか、誰が勝れようか。このように自利利他するのは、なんと妙なることか。なんと快なることか。最後に世尊がこの経を演説し終えられたとき、四衆弟子、人天の大衆は、信ぜざるものなく、受けざるものなく、奉ぜざるものなく、行ぜざるものなく、これを如来の演説した金剛般若波羅蜜経の信受奉行と名づける。
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