原文:须菩提白佛言。世尊。佛得阿耨多罗三藐三菩提。为无所得耶。佛言。如是。如是。须菩提。我于阿耨多罗三藐三菩提。乃至无有少法可得。是名阿耨多罗三藐三菩提。
釈:須菩提が仏に申し上げた。世尊よ、仏が阿耨多羅三藐三菩提を得られたのは、無所得であるということでしょうか。仏が言われた。その通り、その通りである。須菩提よ、私は阿耨多羅三藐三菩提において、いかなる微少な法も得るところがない。これを阿耨多羅三藐三菩提と名付けるのである。
このような結論は、もし仏御自らがお説きになったものでなければ、衆生は満腹の疑いを抱いて信じず、甚至し謗ることさえあるだろう。なぜなら衆生は皆、仏はすでに成仏されたのだから、必ず無量無辺の無数の法を得て、初めて成仏できるのであり、世出世間の一切の法を全て得て、初めて成仏できるのであり、そうでなければ成仏できないと考えているからである。たとえ菩薩となるにも、多くの法を得て、初めて菩薩となれるのであり、そうでなければ凡夫のままである。たとえ凡夫であっても、常に得失の間で揺れ動いており、一法も得ないということはない。
衆生は仏や菩薩や自分自身が、どのような面で何を得ていると知っているのだろうか。もちろん衆生は皆、相の上で仏に得るところがあり、菩薩たちに得るところがあり、凡夫の衆生に得るところと失うところがあると知っている。では衆生は、成仏した際に相の上で何を得たと知っているのだろうか。まず仏の色身から見ると、成仏した時、仏は円満な報身、応身、そして無量無数の化身を得て、三十二相、八十種好の荘厳な妙相身を得た。それゆえ仏は、どのような身をもって度すべきかに応じて、その身を現じて衆生のために説法されるのである。
国土においては、仏は無数の清浄荘厳な勝妙な仏国土を得て、また無量無辺の弟子たちが随従して修学している。仏は三大無量劫の辛苦の修行によって、無量の三昧を得て、無量の神通力・道力を獲得し、全ての天魔外道を降伏することができた。最も重要なのは、仏は一切種智を得て、最も勝妙な大智慧を獲得し、世出世間の法において、一法として了知しないものはなく、それによって自らの意のままに衆生のために三蔵十二部の経典を説き、全ての仏法を説き示すことができるのである。
仏が得られたこれらの法と功徳は、すべて最も粗略に言ったものであり、細かく説けば百劫を経ても説き尽くせない。しかしながら、これらの功徳、これらの法は、仏が凡夫であった時には具えておらず、全て凡夫の位から修行を始めて、一滴ずつ徐々に獲得したものである。すなわち、仏が得られたこれらの法と功徳は、無から有へ、少から多へ、不具足から円満具足へと至ったのである。これは何を説明しているのだろうか。これらの法が無から有へ生じたことを説明している。生じたものは本来から有るものではなく、本来から有るものでなければ幻化であり、幻化であれば実ではない。幻化であって実でない以上、真実に得ることはできない。ちょうど火炉の中の氷のようなもので、得ることは全くできない。虚空の花のようなもので、得ることは全くできない。夏の陽炎のようなもので、得ることは全くできない。夢の中の物のようなもので、得ることは全くできない。石女の子のようなもので、得ることは全くできない。水中の泡のようなもので、得ることは全くできない……
これらの法相は、相の上で全て了知することができ、全て相貌を有している。しかしこれらの相はどこから来たのだろうか。全て仏の実相心・無垢識から来ており、全て無垢識によって変現され幻化されたものである。仏の三大無量劫の修行の功徳は、一滴残らず仏の因地の心・如来蔵の中に存在しており、漏れることはなく、無量の功徳が全て種子として蓄えられている。因縁が成熟した時、その果報は絶えず顕現してくる。顕現してくるものは全て相であり、如来蔵によって変現される。それゆえこれらの相は全て虚妄であり、生滅し、幻化するものであり、実法ではない。実法はただ一つ、如来蔵のみであり、不生不滅であり、あるいは仏の無垢識と呼ばれ、真常・真楽・真我・真浄であり、その他の一切は真ではなく、全て真によって幻化され顕現されたものである。
もう一方の面から見ると、これらの虚妄な法相は、誰によって得られるのだろうか。見てみよう、仏はどのような部分から構成されているのか。仏もまた身心の二つの部分から構成されており、仏身も四大によって合成されている。無量の相好を有するとはいえ、無覚無知であり、縁が尽きれば四大は散壊し、色身は消滅する。色身自身でさえ自在ではなく、ましてや外から法を得ることができようか。しかも心でもなく、どうして法を得ることができようか。仏の心には八つある。大円鏡智(第八識)、平等性智(第七識)、妙観察智(第六識)、成所作智(前五識)である。仏の大円鏡智・第八識は、無所得の心であり、一切の法を得ない。なぜなら自身が本来一切の法を具足しており、少しも欠けることがなく、一切の法は全て自身から生じ、全て自身から来るからである。それゆえ祂は自分自身を再び得ることはない。しかも本来全て自分自身のものであり、何を得るというのだろうか。
仏の七識心は、有所得の心ではあるが、しかし仏の七識心はすでに純無為に達しており、内心はすでに空空浄浄であり、もはやいかなる法をも貪って得ることはなく、自心が何らかの法を得たと覚知することもない。ましてや、仏の七識心は、すでに智に転換され、種子は徹底的に清浄であり、一糸の無明もないが、それでも依然として仏の無垢識が識種子を流注して生成したものであり、それゆえ幻虚であり、生滅性を有する。生滅がある以上、それは自在ではない法である。ならば七識自身でさえ自在ではなく得ることはできず、ましてや他の法を得ることなどできようか。仏の七識心が、もし得るべき法があると考えるならば、心は空浄ではなく、心が空浄でなければ、まだ成仏できない。それゆえ仏の七識心も一切の法を得ないのである。
仏は阿耨多羅三藐三菩提を成就し、無量の勝妙な妙法を獲得したとはいえ、法においても、実に無所得なのである。成仏道を成就するというこの一法について、中間の過程および結果は、全て仏の如来蔵・無垢識が一切の法を円満に成就するのであり、各々の法は全て如来蔵・無垢識が七識と配合して幻現したものであり、全て如来蔵・無垢識によって成就され、全て如来蔵性であり、本来実有ではない。それゆえ成仏道を成就するというこの法を、阿耨多羅三藐三菩提と名付けるのである。だから阿耨多羅三藐三菩提はただの名前であり、実質は無垢識が幻化したものである。
総じて言えば、仏は無所得であるがゆえに成仏したのであり、一法も得ないからこそ成仏できるのである。もし一法でも得るべきものがあると考えれば成仏できない。なぜこのように言うのか。仏は大智慧・無上智慧によって成仏したのであるが、仏の智慧はどのようにして得られたのだろうか。仏は凡夫から修行を始め、三大阿僧祇劫を経て、徐々に全ての無明を破し尽くした。一つの無明を破るごとに、一つの明が顕現し、心地の暗黒が一部消えるごとに、一部の光明が現れる。この光明がすなわち智慧である。全ての無明が滅し尽くせば、一切種智が現れる。それゆえ仏の無上智慧・無等等智慧は、獲得されたものではなく、得られたものでもなく、無明を滅尽し遮障を取り除いて顕現したものである。すなわち成仏とは何らかの法を得ることではなく、一法も得ずに、全ての遮障を取り除き、心地の光明が自然に顕現することなのである。だから私たち一人ひとりが仏法を学び修行する目的は、無明を破ることにあり、何かを得ることではない。有所得の心は、すなわち無明であり、すなわち遮障であり、智慧が顕現するのを妨げるのである。
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