衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2026年05月29日    金曜日     第1開示 合計4726開示

金剛経講解.なぜ諸心は皆非心なのか

一体同観分第十八原文:须菩提。于意云何。如恒河中所有沙。佛说是沙不。如是。世尊。如来说是沙。须菩提。于意云何。如一恒河中所有沙。有如是沙等恒河。是诸恒河所有沙数。佛世界如是。宁为多不。甚多。世尊。

解釈:須菩提、あなたはどう思いますか。例えば恒河の中のすべての砂について、仏はそれをやはり砂とお呼びになるでしょうか。須菩提は答えて言いました。その通りです、世尊、如来はこれらの砂を砂とお呼びになります。須菩提、あなたはどう思いますか。例えば一つの恒河の中のすべての砂の数だけの恒河があり、これらの砂と同じ数だけの恒河があり、さらにそのように多くの恒河の中のすべての砂の数のように、仏国土もこのように多いとすれば、これほど多くの仏国土は多いのでしょうか。須菩提は答えて言いました。世尊、それはあまりにも多すぎます。一つの恒河の中の砂だけでも、すでに数えきれないのに、まして砂のように多いすべての恒河の中のすべての砂となれば、それは数えることもできず、想像することもできません。仏国土はこのように多く、それゆえ仏国土もまた想像を絶するほどなのです。

原文:佛告须菩提。尔所国土中。所有众生。若干种心。如来悉知。何以故。如来说诸心。皆为非心。是名为心。所以者何。须菩提。过去心不可得。现在心不可得。未来心不可得。

解釈:世尊は須菩提に告げました。これほど多くの仏国土の中のすべての衆生の、さまざまな心を、如来はことごとく知っており、少しも漏れることがない、と。なぜこのように言うのでしょうか。如来が説かれるすべての衆生のさまざまな心は、いずれも真実の心ではなく、仮に心と名づけるだけであり、真実に存在する心ではなく、ただこれらの心に仮の名前をつけて、心と呼んでいるにすぎないからです。なぜこのように言うのでしょうか。須菩提、これらいわゆる心は、みな生滅変異して無常なのです。過ぎ去った心は、すでに消えてしまったのであり、得ることはできません。現在の心は、なお念念として迁流変化していて、把捉することができず、これも得ることはできません。未来の心は、まだ現れておらず、なおさら得ることはできません。得ることのできない、把捉できない心は、真実の心ではなく、ただ幻化した仮の相にすぎないのです。

なぜ衆生のさまざまな心を如来はすべて知ることができると言うのでしょうか。ここでの如来とは、一つには五蘊の身を有する如来を指し、報身仏と応化身仏を含みます。もう一つは五蘊の身なき法身仏 (dharma-kāya-buddha) の如来を指します。応化身仏は、三大無量数劫の修行によって一切種智 (sarvākārajñatā) を成就し、神通道力は円満で碍りがありません。その智慧は十方世界の無量無辺の衆生のすべての心行を見徹することができ、すべての衆生の心念を一時にことごとく了知し、どこの衆生の因縁が成熟すれば、そこに応化して法教を宣べ伝え、衆生を度し脱らせます。もう一つの法身仏の如来は、衆生の心行を了することができます。七識心の現行の運作過程における心行を、如来蔵 (tathāgatagarbha) はすべて知っており、それによって初めて七識に配合して現行を生起させ、運作を続けることができるのです。したがって、衆生の種々の心とは妄心である七識を指すのであって、金剛心 (vajra-citta) の如来蔵を指すのではありません。なぜなら如来蔵はただ一種だけであり、種々ということがないからです。

如来蔵が衆生の心行を了するのは、主として第七識である意根の心行を了別することによります。六識が六塵の万法を了別する中で了別し思惟した内容は、すべて意根に伝えられねばなりません。意根はこれに依って、作意などの心所法を生起させ、さらに自らの思量 (manasikāra/manana) と抉択を行います。如来蔵は意根の作意と思心所を了別し、意根のすべての抉択と計らいを如来蔵は了知することができるので、意根の抉択に随順して、六識心の身口意行を生起させるのです。したがって、如来蔵が意根の心行を了すれば、六識の身口意行を意根の抉択に従って現行させることができます。意根の思量した内容はすなわち六識が了別した内容でもあるので、如来蔵が意根の心行を了別することは、六識の心行を了することにも等しいのです。如来蔵はまた衆生の業種をも了別し、了別した後には業種を出力するので、衆生がどのような心行を現起させるかを知ることもできるのです。

そしてこれらの七識心は、実は七識心というものはなく、表面的には有るように見えますが、その有は仮有であり、衆生は妄見し妄知しているだけで、実際にはすべて如来蔵心なのです。如来蔵が識の種子を輸送して形成された七識心は、その実体はやはり如来蔵心であり、衆生が妄見する七識心の実質は如来蔵なのです。すべては如来蔵が自らの変現した幻化の境界の中で戯れているにすぎないので、如来は諸心は皆非心であると説かれたのです。ここでの非心とは、如来蔵を指すのではなく、七識心を指します。つまり、真実の七識の妄心というものは存在せず、すべて第八識の如来蔵であり、仮に諸心と名づけ、仮に七識と名づけるのだという意味です。

後の部分ではさらに三心について補足して説かれていますが、前後一貫して、いずれも七識の妄心を指しています。七識の妄心は了不可得です。なぜなら、いずれも実法ではなく、幻化した生滅のものであるからこそ、不可得であると説かれるのです。過去・未来・現在の三種の心は、主として六識心、意識を主とする心を指し、意根には過去・未来・現在の区別がありません。これらの心はどれも掴むことができず、留めることができず、刹那に生滅し、念念として留まることがないので、これらの心は不可得であると説かれるのであり、実際にも得ることはできないのです。


——生如法師の開示
前へ前へ

金剛経講解・一体同観分第十八

次へ 次へ

金剛経講解.法界通化分第十九

ページトップへ戻る