原文:須菩提。于意云何。若有人満三千大千世界七宝を以て用いて布施せば、是の人、是の因縁を以て、福を得ること多きや不や。如是、世尊。此の人、是の因縁を以て、福を得ること甚だ多し。須菩提。若し福徳に実有らば、如来は福徳多しと説かじ。福徳無きを以ての故に、如来は福徳多しと説く。
解釈:須菩提よ、このようなことについてあなたはどう思いますか。もし誰かが三千大千世界に満ちる七宝を取り出して布施したならば、この人はこの布施の因縁によって得る福徳は多いでしょうか。須菩提は答えて言った:それは非常に多いです、世尊。この人はこの布施を因とし縁として、将来の果報として得る福徳は極めて多いのです。世尊は須菩提に言った。もし衆生が得る福徳にその実在性があるならば、私はその得る福徳が非常に多いとは言わないであろう。なぜなら福徳には実在性がなく、実質がなく、自性がないからである。それゆえに私は、この人が三千大千世界の七宝を布施して得る福徳は非常に多いと言うのである。
なぜ世尊は福徳には実在性がないと言うのでしょうか。世尊の言葉を借りて言えば、いわゆる福徳は、即ち福徳に非ず、これを名づけて福徳という。福徳は世俗法に属し、自性がなく、ただの名前に過ぎない。私たちは福徳がどのような形で現れるのかを見てみよう。布施すれば福を得る。布施には財施、法施、無畏施が含まれる。金銭や物は物質であり、色法である。無畏施は心法であり、意識心の精神世界であり、六塵の境界を出ない。衆生が布施して福を修める時、五蘊身が自分に属する色声香味触法の六塵を相手の五蘊身に布施して享受させるのである。そして色声香味触法の六塵は世俗法に属し、世俗法を布施すれば、その果報も世俗法の報いを得る。これが言うところの福徳である。
では、世俗法の報いとは、すなわち三界世間の中の財・色・名・食・睡、色声香味触に過ぎない。具体的には、名声、権利、地位、眷属、金銭、色身の享受、健康、長寿など、これらの世俗法の福徳として現れる。これらの世俗法は、一つには福徳を享受し終えれば消え去り、少し享受すれば少しずつ消え、最終的に全てを享受し終えれば福徳は尽きてしまう。ゆえに世俗の福徳には享受し尽くされる時があり、衆生が持ち享受する福徳は生滅性のものであり、それゆえに実在ではない。真実のものは永遠に享受し尽くされることがない。例えば仏の福徳は永遠に享受し尽くされることがない。なぜならそれは単なる世俗世間の中の福徳ではないからである。
世俗法における福徳の非実在性は、別の側面からも言える。すべての福徳は因縁によって生じる法である。布施は福の果を得る因であり、しかもこのいわゆる因の中には、主として如来蔵という真実の因が存在する。布施を因として行う時、如来蔵は五蘊身を現起させて具体的に布施の行為を実行させ、同時に如来蔵は布施の業種を収蔵する。その後、如来蔵は再び様々な縁に依存する。例えば、この人が財を成すには財を成す縁が現前し、権勢を得るには権勢を得る縁が現前し、眷属を得るには眷属を得る縁が現前し、長寿を得るには長寿の縁が現前し、名声を得るには名声を得る縁が現前しなければならない。このように縁が具足して現起する時、如来蔵は業種を出力し、この人は対応する福徳の果報を得る。
これらの果報もまた、如来蔵が協力して現起した五蘊身が得、五蘊身が享受する。一つ一つの微細な段階に如来蔵の助けがあり、すべて如来蔵が幻化したものであり、一つ一つの段階は虚妄であり実在ではない。では総じて、布施のすべての行為、福徳を得るすべての過程、これらの因と果は、すべて如来蔵が幻化し現起したものであり、したがってすべて虚妄であり、実在ではない。このゆえに、仏は衆生が福を修め布施して得る福徳は多いと言う。虚妄な法だからこそ、多い少ないという数量の説があるのである。実相の法の中には、数量がなく、多少がなく、大小がなく、長短がなく、方円もない……これらの福徳は表面上はあるように見えるが、あるのは仮の有であり、人の目を惑わすに過ぎず、その実質はすべて如来蔵である。
では、法施によって得る福徳には実があるのか。それは福徳性なのか。享受し尽くせるのか。法施はどのような福徳を得るのか。法施によって得る福徳には、二つの側面がある。一つは世俗法の中での福徳を得ることであり、殊勝な色声香味触法を得る。もう一つは、出世間法の福徳を得ることである。そして出世間法の福徳は、絶えず積み重ねられ、ついには成仏に至るまで、福徳は決して消え去らず、享受し尽くされることもない。法施は、出世間の智慧を得ることができ、出世間の如来蔵実相の法を証得し、それによって智慧は絶えず増進し、地地に向上し、ついには菩提の果を円満にすることができる。ゆえに、法施によって得る福徳は、その大部分が福徳性を有し、実在性があり、三千大千世界の七宝の布施よりもはるかに殊勝なのである。
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