衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年05月05日    火曜日     第1開示 合計4702開示

言語の発生によって意識は意根の道具であることを証明する

言語が生じる前には、まず丹田に一つの気を集めなければなりません。集める過程において、気は丹田の中にあるとはいえ、気のフィールドは身の外に現れ、放出されます。禅定の心が細やかな人は、この気のフィールド、そして気息とエネルギーの流れる方向を感知することができます。ここには気息とエネルギーの強度も含まれ、温和で平静なものか、激しく瞋の情绪が高ぶったものか、喜怒哀楽の情绪が現れ出て、態度が先に一部現れます。さらに顔の表情、眼差し、身体の姿勢やボディランゲージが加わり、総合的に、観察力と細やかな感知力を持つ人は、この人が何を言おうとしているのか、善悪の属性はどうなのか、つまり表現しようとする思想内容を予感するのです。この言語を伴わない気息とエネルギーの伝達、情绪の表出は、完全に意根が操縦するものであり、意根の情绪を体現しています。もちろん顔の表情は偽ることも装うこともできますが、これは意根が意識と身識を主導して装わせているのです。

丹田に気を十分に集めると、気は身体の中の上向きの通路に沿って、へそ、胸郭、咽喉、口腔へと運ばれ、歯や舌と合わさることで、言語が生み出されます。禅定を持つ人は、話し手の口腔から流れ出る一筋の気流を感じ取り、振動するエネルギーが放出されるのを感じることができます。気の足りた人ほど、話に底力があり、コントロール力があり、感染力があり、人の心を摂持することができます。心が正直な人はこの中気が十分にあり、影響力と感染力が大きく、人に誠実な印象を与え、信服させやすいのです。これもまた、その人の徳が感召した結果なのです。

言語は意識の行為造作であり、身識とも切り離せず、身識とともに情感と心意を表現します。言語の産生には身体と身体の中の気血が必要であるため、身識は必ず参与します。もし身体が定に入り、身識が生じられなければ、意識は単独で言語を生み出すことはできません。しかし意識の造作は、気流の運行の最後に生じるものであり、気流の運行は意根が操縦しています。運行の前に、意根には表現したい意志があり、それが気流を丹田に集めさせ、その後口腔へと運行させ、意識と身識が言語を生み出すのです。この現象は、意根が先に動念し、先に心思があり、先に抉択を行い、その後に意識が生じて、意根の心意と抉択を完成させることを示しています。すると、意識が五識とともに造作する身口意行は、意根の心意を代表することになりますが、これは意根が独頭意識の影響を受けて行った抉択を排除するものではなく、身口意行の中にも独頭意識の心意が含まれているのです。

——生如法師の開示
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