衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年03月24日    火曜日     第1開示 合計4659開示

暗々裏に問題をかけたまま思索するのは意根である

如春:先日、師父がグループで、孫悟空は如来仏の手のひらから飛び出せなかったと話されました。それで心の中で、なぜそうなのかを考えていました。数日考えても満足のいく答えが出なかったので、考えるのをやめて放置していました。ところが昨日、家族に「あなたは精進料理ばかり食べていて、偏って全体を蓋然化している」と言われました。それはまるで、孫悟空が柱だけを見て如来仏の手のひらを見ていないのと同じだと。それを聞いて心が震えました。これはまさに私が求めていた答えではないでしょうか。柱だけを見えて如来の掌(如来蔵)が見えていない。連想から導き出された答えは必ずしも正しいとは限りません。私が確かめたいのは、このように問題をぶら下げて答えを探すのは意根なのかということです。というのも、当時は答えが出せず、心の中にわずかな未練はありましたが、仕方なく手放すしかありませんでした。家族のその言葉を聞いた瞬間、心の中でふと分かったような気がして、痒い所に手が届いたような感覚がありました。

講評:あなたは自分がどんな答えを求めているのかをはっきり言えていません。心の中で密かに問題をぶら下げて思索していても、意識(自分自身)は必ずしも気づいていません。これは意根が心の中で問題をぶら下げているのです。ひらめきが湧いてくると、意根が問題の答えを考え出し、意識は意根が参究して導き出した答えを理解するのです。しかし意根が考え出したものは必ずしも正しいとは限らず、誤解やズレがあるかもしれません。意根の慧は千差万別であり、開悟した後でも円満ではないのですから、まして無明の段階にある凡夫はなおさらです。

如春:はい、師父。意識は自分がまだ考えていることに気づいていませんでした。私の意根の慧はとても低く、想到したのはただ、如来仏の手のひらの心は如来蔵を寓意的に指し、孫悟空が見た柱は私たちの肉眼で見る世界を寓意的に指しているということだけでした。そこまで考えて満足してしまい、正しいか誤りかも分かりませんでした。


——生如法師の開示
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古唯識における瑕疵

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