玄奘法師が翻訳または半翻訳・半著作した『成唯識論』に述べられている意根の体性について、意根は無記性であり、善でも不善でもないと説かれている。当時の私は玄奘法師の説に疑いを差し挟む勇気がなく、彼の説くところはすべて正しいと思い込み、その説に従って意根のこのような体性を理解していた。その後、徐々に間違いに気づき、意根の体性を正し直したところ、一部の人々の反対を招くことになった。
最初に唯識を説いたときは智慧が足りず、『成唯識論』を疑うことも、名声の極めて高い玄奘法師や他の唯識の師たちを疑うこともできなかった。ところが後になって間違いに気づき、自らの観察に基づいて説くようになると、人に依って法に依らない人々の反対を招くことになった。名声の差が大きすぎて、他人の説く法に従わなければ、多くの面倒な問題を引き起こすことになる。
私が『意根心所法』という書物の中で説いた意根の心所法は、意根の体性を多く正し直し、古来の唯識とは異なっている。当初はこの書物を公表する勇気がなく、妨害が大きくて不必要な面倒を引き起こすのを恐れた。その後、意根について多く説くうちに、多くの人が意根について正しい認識を持つようになり、受け入れられるようになったので、ウェブサイト上で公開し、誰でも自由にダウンロードして読めるようにした。
考えてみてほしい、もし意根が無記性で、善でも悪でもないとするなら、それは理にかなうだろうか。目利きの人なら一目でわかるが、意根は善悪が交錯しており、修行とはまさにこれを修することである。意根がもし悪を断って善に転じることがなければ、衆生はどうして成仏できようか。意根に悪がなければ、衆生は何のために仏道を学び修行する必要があろうか。
衆生は愚かで無知なために、名声の大きい者、特に古人を盲信するだけで、「法に依って人に依らず」ということは実際にはできない。「法に依って人に依らず」という言葉は単なるスローガンとして唱えられているだけで、形だけのものであり、実際に実行できる者はほとんどいない。
玄奘法師がこの論を翻訳するにあたって、自らを深みにはめ、自らに汚点を残し、後世の智者に評価されることになったのは、あまり価値のあることではない。かつて誰かが『成唯識論』について質問してきたとき、私は説明を試みたが、説明しているうちに明らかな誤りを発見し、それ以上説明を続けるのをやめた。私はもともとこの論を解説しようと思っていたが、誤りを発見してからは、自らを深みにはめることを恐れ、解説するのをやめた。両方の立場からして得るものがないからだ。
以前、窺基大師の著作を読んだことがあるが、多くは読まなかった。というのも、読んですぐに誤りが明らかで、しかもかなり多かったからだ。古代の唯識に欠陥や瑕疵がなかったなら、なぜ第二代の窺基大師のところで途絶えてしまったのか。あの時代はまだ正法が像法に近く、法がそれほど衰えておらず、衆生の根器もまだ良かった時代である。
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