如春:私はいつも師匠がなぜ「説くべき法はない」と言われるのか理解できませんでしたが、今日新版の金剛経を読んで少し分かったような気がします:1.実法の本質は無ではなく、説く者が語ることで有となります。つまり説く者、聞く者、説法という事象が生じ、有が生じれば滅があり、我あり、相あり、執着が生じます。2.師匠は様々な因縁に応じて異なる法を説かれますが、その時に説かれる法は変化無常であり、恒常不変の真実の法そのものではありません。こうして師匠の説かれる法は非法・仮の法となるため、師匠は「説くべき法はない」とおっしゃるのです。説いてしまえば真実の法ではなくなるからです。しかしなぜ師匠はこれほど多くの法を説かれるのでしょうか?衆生が生死を渡り切れていない間は、仏法という非法に依存しなければ救われないからです。したがって仏法は非法であると同時に非非法(単なる非法ではないもの)でもあり、師匠は慈悲をもって私たちのために法を説かれるのです。
評:あなたの思考の論理はあまり良くなく、調整と改善が必要です。第一に、実法の本質は無ではなく、空性の心であり、有です。この実法があるからこそ、世の中の一切の法(非法を含む)が存在するのです。無とは外道の頑なな空(虚無)であり、実相の法に対する否定です。説法者が実相の法を説くのは、指で月を指し示すようなもので、無を有に変えているわけではありません。聞法者が迷い執着し、説く者、聞く者、説法聞法という事象が実在すると考えてしまうのです。第二に、恒常不変の真実の法は、誰も説くことができず、ただ指で指し示すことしかできません。法とはその指なのです。そして私が説く法は真実の法の変現であり、これもまた空であるため、「説くべき法はない」と言うのです。
金剛経において仏は「説法者には説くべき法がない」と説かれています。これはもともと仏法なるものは存在せず、仏法は後天的に生み出されたものであり、仏が衆生の無明に基づいて説かれた対治法だからです。この対治法こそが後天的に生成された法であり、生滅し幻の如く変化するものであって、固有の固定的な不変の法ではないため、仮の法なのです。これらの仮の法は、使い終え実証してしまえば用をなし、捨て去るべきものです。もし心の中にこれらの法を留め、これらの法に執着するならば、それは法執であり、無明です。仮のものを真実と見なす無明であり、無明とは愚痴そのものです。ちょうど薬を飲むのは病気を治すためであり、病気が治れば薬は捨てるべきものです。それでも薬を飲み続ければ新たな病気が生じ、薬に執着することが病となるのと同じです。説法者の説く法は病気を治す薬に似ており、もともと薬は存在せず、病気になったから作り出された薬なのです。
では仏法はどのようにして現れたのでしょうか?それは説法者の如来蔵が種子(しゅうじ)を幻化して現れ出したものであり、その形相も機能もすべて種子の働きです。種子は如来蔵に属するものであり、仏法の実質は空であり、仏法という相貌は存在せず、すべて如来蔵の属性なのです。あたかも金の器物はすべて黄金という属性を持つようなものです。このような法、およびすべての大乗仏法は、如来蔵を実証して初めて真に体得し観察できるものであり、実証以前には意識が如何に想像を巡らせても、靴の上から痒いところを掻くようなものであり(隔靴搔痒)、遠くの水では目の前の渇きは癒せません(遠水近火を救わず)。
実証以前には、仏法に対する理解の大筋が正しければそれで良く、もし自分が解した内容を細かく詮索すれば、至る所に穴(誤り)があるものです。想像による思考と見道(けんどう:初地の悟り)による親見・実証との差は、天と地ほどにも隔たっています。
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