衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年03月17日    火曜日     第1開示 合計4652開示

何故説くべき法なしや?

如春:私はいつも師父がなぜ無法可説と言われるのか分からなかったのですが、今日新しい版の金剛経を読んで、少し分かったような気がします。1. 実法の本質は無であり、宣説する者が語ると有になってしまう。すなわち、説法する者、聞法する者、そして説法という事柄が存在することになり、有生があれば滅もあり、我もあり、相もあり、取もある。2. 師父は異なる因縁に応じて異なる法を説かれる。このとき説かれる法は変化無常のものであり、あの恒常不変の真法ではない。そうなると師父の説かれる法は非法の仮法になってしまうので、師父は無法可説と言われるのです。説めば真法ではなくなるからです。しかし、師父はなぜ私たちにこれほど多くの法を説いてくださったのでしょうか。衆生が生死を渡りきっていないとき、仏法という非法に頼らなければ救われないからです。だから仏法は非法であり、また非非法でもあるので、師父は慈悲をもって私たちのために法を説かれるのです。 

点評:あなたの思惟の論理はあまり良くなく、調整と改善が必要です。第一に、実法の本質は無ではなく、空性心であり、有です。この実法があるからこそ、世間の一切の法、非法を含めて、存在するのです。無とは外道の頑空 (jaḍa-śūnyatā) であり、実相法に対する否定です。説法者が実相法を説くのは、指で月を指すのであって、無を有に変えたのではありません。聞法者が迷い執着して、説法する者、聞法する者、そして説法・聞法という事柄が有ると考えたのです。第二に、恒常不変の真法は、誰にも語り出すことはできず、指で指すことしかできません。法とは指なのです。そして私が説く法は真法の変現であり、これも空です。だからこそ無法可説と言うのです。

金剛経の中で仏は、説法者には無法可説であると説かれました。これは、本来仏法というものは何もなく、仏法は後天的に生成されたものであり、仏が衆生の無明に依拠して説き出した対治の方法だからです。ならばこの対治の方法は後天的に生成された法であり、生滅幻化のものであって、固有的で固定的な不変の法ではありません。それゆえ仏法は仮法なのです。これらの仮法は、使い果たし実証してしまえばもう用はなく、捨てるべきものです。もし心中にこれらの法が残っていたり、これらの法に執着したりすれば、それは法執であり、無明です。仮を真とする無明であり、無明とは愚痴です。薬を飲むのは病を治すためであり、病が治れば薬は捨てるべきもので、それでもなお薬を飲み続ければ、新たな病が生じ、薬に執して病となるのと同じです。説法者の説く法は病を治す薬に類するもので、本来薬はなく、病気になると薬が作り出されるのです。 

では、仏法はどのようにして現れるのでしょうか。それは説法者の如来蔵 (tathāgatagarbha) が種子から幻化させたものであり、その形相も功用も、すべて種子の功用です。種子は如来蔵に属するものであるから、仏法は実質的には空であり、仏法という相貌はなく、すべて如来蔵の属性です。金器がみな黄金の属性であるのと同じです。このような法、およびすべての大乗仏法は、如来蔵を実証して初めて切実に体会し観察することができます。実証の前には、意識がどのように想像しても、それは隔靴掻痒であり、遠水は近渇を解しません。

実証の前には、仏法に対する理解の大方向が正しければそれでよく、自分の解したものを細かに究めようとすれば、至る所に瑕疵があります。想像による思惟と、見道の親見実証とは、天と地ほどの差があるのです。


——生如法師の開示
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