衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年03月16日    月曜日     第1開示 合計4650開示

いかなる法を実証する方法が同じ

問:禅を参究することは明心見性の唯一の方法なのでしょうか?観音菩薩の耳根円通法門には禅参究の部分は記述されていませんが、「彼の仏が教え給う、聞思より三摩地に入らん」との一節があります。ここの「聞」は明らかに大乗仏法を聴聞することですが、ここの「思」は意根による自心如来蔵への参究を含んでいるのでしょうか?もしここの「思」が既に明心見性を含んでいるなら、なぜ耳根円通が凡夫の段階から修行を始められると言われるのでしょうか?それとも「思」とはただ深く思惟し疑情を抱くことで、智慧への探究心を携えて四禅八定に入った後、初禅あるいは二禅以上の深い禅定の中で、意根が直接触証することによって明心見性するのでしょうか?

答:貴方の思考は少々混乱しており、禅参究と聞思修証の関係を整理できていません。禅参究は「修」の段階に属し、その後に「証」が続きます。凡夫から仏に至るまで、全て戒定慧を修行し、聞思修の段階を経ます。ただ聞思修証の内容に段階的な差異があるだけで、方法は同じです。

このうち修行に用いるのは前七識であり、各修行段階の最後には必ず意根の「思」によって三摩地に入り仏法を証得します。意根の「思」には様々な説があり、名相術語は少なくありませんが、要するに意根の思惟であり、修行法は同じです。ただ修行の段階が異なるため、修行の深浅があるのです。「参禅」の「参」は意根レベルの参究を指し、「禅」は如来蔵というこの心を指します。その後如来蔵内の功徳や種子の機能を参究することも、全て「参」あるいは「参究」と呼ばれます。参禅とは大乗の明心見性によって無生忍を証得する修行法であり、唯識に証入して無生法忍を得る修行法でもあります。

観世音菩薩の耳根円通修行法は、多くの段階の修行法を含んでおり、修め終われば等覚菩薩となり、等覚菩薩の大智慧を具え、成仏に至るのは目前です。凡夫から明心見性した大乗菩薩に至るには無量劫の修行が必要であり、一つの無量劫を修行して初地菩薩に至り、更に第二の無量劫を修行して八地菩薩に至ります。八地菩薩から等覚菩薩に至るのもほぼ一つの無量劫に近い時間を要します。そうすると耳根円通の修行次第と内容は、成仏に至る一切の法をほぼ包括していると言え、小さな明心見性の方法など取るに足らず、あまりにも粗浅なものなのです。

しかし初歩的な明心見性であれ、より高深な唯識法の実証であれ、用いる方法は全て参究の方法であり、意根を用いて工夫する方法であり、意根と意識の共同証です。耳根円通章における修行法の紹介は簡潔であり、等覚に至る方法を全て詳細に紹介できるものではありません。仮に詳細な紹介や指導があったとしても、ほとんど全ての人は理解できないでしょう。凡夫がどうして等覚菩薩に至る法を理解できようか?


——生如法師の開示
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