衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年03月07日    土曜日     第1開示 合計4641開示

不動意識観の効果

意根は眠らない。六識がすべて滅しているときには、眠るとも言えず、眠らないとも言えない。では、誰が眠っているのか?この問題についての思考は、佛陀が私たちに教えた四念処の観行と同じ道理であり、同じ用功の方法である。ただ観るだけでよい。現量で観るのであり、思惟など何も働かせなければ、現量の触証が得られ、我見は自然に断てる。意識の思惟をひとたび働かせると、感覚が変わってしまい、現量の境がなくなり、結果は親切でなく、真実でなくなる。

無相は空であり、有相もまた空である。だから空とは、必ずしも相を滅さなければならないのではなく、相を見ながら、その当下で空なのである。これらの法を通達させ、智慧を通達させれば、成仏する。これらの法を通達させようと思うなら、意識の思惟では絶対にだめで、思惟すればするほど道から遠ざかり、現量の境がますます失われる。必ず意根で現量に感知し、現量に触れ、最後にようやく現量に証することができる。自ら体験し、自ら経験してこそ、自ら感受できる。親(しん)とは、意根自身が自ら直接にということであり、意識に代わりをさせるのではない。

意識で聞いたものは一つの階層であり、現量で観察したものは一つの階層であり、自ら触証したものはまた一つの階層であって、それぞれの階層の感触はどれも異なり、身心の反応はなおさら天と地ほどの違いがある。意識で聞いたものは、今から見れば、一体何なのだろうか?

君若兰:今日、師父のこの言葉を見て、思惟を止めて身の回りの人や物事を見ることを試みました。覚知はあるのに、内心がずっと静かであると感じられます。このとき、師父の言われたこの言葉は私自身の現量の観察であり、今後私がこの言葉を語るときには、完全に学んで得たものではなくなるでしょう。

講評:このような状態は一念不生に類するものである。意識の思惟は止まっているが、思惟せず、動念せず、静かな意識が覚知と観察をしており、依然として意識の覚知と観察の中にあって、意根の現量の感知と観察ではない。意根の現量の観察は、必ず定の中で、一心一意の専注の中になければならない。意識のさまざまな状態をはっきり認識できれば、意識と意根を区別できるようになる。意識と意根がそれぞれどのような特徴と性質を持っているかを見分けられるようになってこそ、自分の覚知・覚察が果たして意識によるものなのか、それとも意根によるものなのかを正しく判断できるのである。

学んだ法の基礎の上でさらに理解することも、証ではない。証でない以上、完全に自分の胸の内から掏り出したものではない。現量の観察はあるが、この観察の智慧には多くの階層があり、最高の階層は現量証に達することができるが、それ以前は完全に自分の智慧ではなく、なお学語の成分が残っている。

——生如法師の開示
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夢の中で戒を犯さないということは、意根が持戒できることを示している

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閉眼で光明を見られる原理

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