仏が説法される際には、理論的な部分と実践的な部分の両方が存在し、必ず弟子たちが修行学道に着手できる入り口を用意されています。なぜなら仏陀ご自身が既に悟りを開かれた方であり、最高峰に立っておられるため、山麓から四方八方に集う衆生を山腹や頂上へと導き入れる完全なる能力をお持ちだからです。
仏の説かれた法を実践することは、華麗で高尚な理論のみを崇拝し具体的な実践方法を持たないものより、はるかに優れています。具体的な実践方法を示せない者は、自らが修行を成就しておらず、その道を通り抜けていない証左です。後続の者たちがどうしてその道を通ることができましょうか。
実修を伴わない者の説法は、往々にして衆生に天上の星を摘むよう指図しながら、雲梯を架ける手段を与えず、後続の衆生はただ哀れに星空を仰ぎ見るしかありません。いかに努力しても星々との距離は元のまま縮まらず、届く術がないのです。中には星を摘んだと錯覚する者もいますが、それは水に映った影に過ぎず、真実の果実を得てはいません。理論のみを説き実践方法を示さない者がいれば警戒すべきで、貴重な時間を空費してはなりません。
真実の修行に着手すれば、一つの法門で三昧を証得すれば、他のいかなる三昧にも容易に通じるようになります。なぜなら三昧は相通じ、方法論も共通しているため、一つの方法で入れば他の方法も掌握できるからです。ただ懸念されるのは、皆が決心して一つの方法に実際に取り組む覚悟がなく、苦労を厭い、精力を費やすことを拒むことです。あらゆる方法を試しながらも蜻蛉が水を点すように表面的に触れるだけでは、いかなる法門も成就することは叶いません。
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