衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年03月09日    土曜日     第3開示 合計1323開示

修行の真の着手点

仏陀が説く教えには理論的な部分もあれば、実践的な部分もあり、必ず弟子たちが修行を始めるための手がかりを与える。なぜなら仏陀自身がその道を歩んできた者であり、最高峰に立っているからこそ、山のふもとから四方八方にいる衆生を導き、ゆっくりと山腹や頂上へ登らせる完全な能力を持っているのだ。

仏陀の説かれた法を修行することは、華やかで高尚な理論だけを崇拝し、実際に実行可能な方法を提供しないよりも、はるかに優れている。実践可能な方法を提供できない者は、自分自身が修行で成功したことがなく、その道を歩み通していない証左である。そんな者に従う弟子たちがどうしてその道を歩み通せようか?

実際に修行していない者が説法するのは、往々にして衆生に天の星を摘むよう指示しながら、彼らに雲梯(うんてい)を架ける手段を与えられないようなものだ。後ろにいる衆生は哀れにもつま先立ちで星空を仰ぎ見るしかなく、どれだけ努力しても星までの距離は相変わらず遠く、手が届くはずもない。自分は星を摘んだと思い込んでいる者さえいるが、それはただ水に映った影に過ぎず、真実の果実を得てはいないのだ。もし理論だけを説き、実践の手がかりを与えない者がいるなら、警戒すべきであり、貴重な時間を無駄に浪費してはならない。

真実をもって修行に着手し、ただ一つの法門で三昧(さんまい)を証得(しょうとく)さえすれば、他のいかなる三昧にも容易に入ることができる。なぜなら三昧は互いに通じ、方法も相通じているからだ。一つの方法で入ることができれば、他の方法も掌握できる。恐ろしいのは、皆が決心して一つの方法を見つけ、実際に努力を重ねようとせず、骨を折ろうとせず、精力を費やそうとしないことだ。もし様々な方法を試しても、蜻蛉(とんぼ)が水をつくように表面だけを撫でて深く入らず、浅く味わうだけで止めてしまえば、いかなる法門も成就することはできない。

——生如法師の開示
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