衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年03月09日    土曜日     第4開示 合計1324開示

歴劫を経た成就者たちは皆、禅定を具足しています

『坐禅三昧経』で教えられている思惟の方法は、観行を教えるものであり、思考は明晰であるが、やや粗雑である。禅定に観行を加えることで、十分に聖果を証得し、様々な三昧を得ることができる。普段はさらに厳格に戒律を守り、戒・定・慧の三つを共に修める。仏陀が在世の折、弟子たちは法を聞いた後、禅定を修め、思惟観行を行い、そして聖果を証得した。当時はこの修行の道筋であり、効率が非常に高かった。唐や宋の時代も同様で、大衆は禅定を修め、思惟参禅を行い、禅師が堂上で開示を行うと、時節因縁が具足して明心見性した。

外道たちは皆、禅定の功夫を備えており、世尊に会った時、世尊が一たび法を説くと、彼らは直ちに思惟観行を行うことができ、その場で聖果を証得した。だから、人が最後に聖果を証得する手順が、法を聞いたその瞬間に智慧を得るものであることを見てはならない。その前に、すでに禅定は成就しており、心はすでに清浄になっており、三十七道品も修められており、正しい知見だけが欠けていた。世尊が法を説くことで彼らの正しい知見が補われ、それゆえ法を聞いたその瞬間に聖果を証得したのである。私たちは人が最後に得た結果だけを見るのではなく、彼らが修行した過程を観察すべきである。過程は重要であり、理にかなった過程がなければ、正しい結果はありえない。

『阿含経』に記載されている事例も、『大涅槃経』に記載されている事例も、真実性がある。確かに、一部の外道たちは四禅八定を修めた後、仏の説法を聞き、わずか数分間思考しただけで我見を断ち、我執を断ち、四果の阿羅漢となり、そして無余涅槃に入った。これらの外道は並外れており、四禅八定の功徳は並外れている。私たちの多くは仏法を聞いて一生を過ごしても我見を断つことができないが、外道は四禅八定を有しているため、わずか数分あるいはそれよりも短い時間で、我見を断つだけでなく我執も断ち、直ちに無余涅槃に入ることができる。確かに不可思議である。

考えてみてほしい。彼らはなぜこれほど利根なのか? それは、彼らが四禅八定を修行する過程において、これほど深い禅定があったため、意識の心が非常に微細で非常に鋭敏であり、意根はすでに降伏されていたが、ただ一つの知見上の誤解が整理されず、断ち切られていなかったからである。一旦この邪見を断ち切れば、すべての煩悩と執着はその時に脱落する。これが四禅八定の功徳である。これによって、意根の煩悩を降伏させることと、四禅八定の関係が非常に密接であることが分かる。禅定は非常に重要である。

かつての禅宗の祖師方は皆、禅定の修得者であり、弟子たちは皆、禅定を有していた。菩薩の六波羅蜜はすでに修められており、修行の過程はすでに完了していた。禅師が堂上で開示を行うと、座下の弟子たちは悟った。果はこのように現れた。私たちは成就した人の結果だけを見るのではなく、最も重要なのは、その人の修行の過程、前世までにどの程度修めたか、どのように修行したか、どのような根基があるかを見ることである。根基がすでに整っている人は、法を聞いたその瞬間に頓悟し、漸修する必要はない。なぜなら、以前あるいは前世ですでに漸修しており、その道のりはすでに歩み終えているからである。修行者の修行過程の最後の部分だけを切り取るのは、深刻な断章取義であり、人を害する甚だしいものである。

仏教を初めて学ぶ者は、仏陀の本生の事跡をもっと読み、仏陀が初発心から修行を始めた道筋を参考にすべきである。私たちにとって大きな啓発があるはずである。仏教を学ぶとは、まさに仏陀のすべてを学ぶべきである。万巻の書を読むことができても、その意味を知らなければ、真の精進ではない。法を学ぶ根本的な目的は、智慧を得ることであり、無数の知識や学問を収集するためではない。学ぶために学ぶのでもなく、ましてや他人に見せるために学ぶのでもない。したがって、智慧を得るために、私たちは何をすべきか、どのようにすべきか、心を込めて考えるべきである。仏教を学ぶ者は、仏の心と行いを学ぶのであり、仏の言葉をすべて集めることではない。仏の言葉を通して仏の心を理解し、それから仏の心を学び、仏の行いを模倣し、最終的に初めて仏と平等無二となり、人々に対して慈悲を施すことができるのである。

——生如法師の開示
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