俗世の中で生きていく上で、ハイテクと高い品性のどちらかを選ぶとしたら、皆さんはどちらを選ぶだろうか。どちらが一人の人間の生存の質を決めるのだろうか。あるいは、ハイテクを高学歴・高教養・高素質に置き換えてもいいし、高い権位・大きな富貴・大きな勢力に置き換えてもいい。高い品質とは、完全に色身の受用や物質的享受を指すのではなく、主に心の受用、そして現在と未来の果報を指す。六道輪廻の中では、天道は人道よりも生存の質が高く、人道は三悪道よりも生存の質が高い。六道輪廻を超えた聖人の品質は、凡夫の衆生よりも高い。
私が以上の問いを提起したのは、最近あるいは以前から、小中学校の教師が極めて師徳を欠いているのを見たからだ。大学の教師でさえ師表がなく、さらには一部の大学生・大学院生・博士課程の学生・留学生の品行も非常に悪い。性別や年齢を問わない。こうした人々を見て、私は現在の教育環境が極めて悪いことを知った。教育の目標は徳ではなく、知識・卒業証書・学歴・経歴であり、外見を重んじて内面を重んじていない。教師がそんな状態で、学生を品学兼優に教育できるだろうか。学業は優れていても、品性は優れようがない。教育はますます心の品質を重視しなくなっており、心を高めるような教育はない。学問でさえも見栄を張るため、世の中のさまざまな資源を得るためのものになっている。外国の教育は良いだろうか。良くない。同じく心の教育がなく、人の品德や品性を重視していない。
仏教界は良いだろうか。同じく良くない。仏教界の出家者も在家者も世俗界から来ており、世俗界から離れることもできない。古いけがれは取り除けず、新しいけがれは遮断できない。仏教の教育者自身の煩悩さえ解決できない。特に在家者は世俗心や私欲が強く、どうして追随者をうまく教育できるだろうか。このままでは、人類にまだどんな希望があるだろうか。各方面の資料やデータは、人類が下り坂を歩んでいることを示している。ある程度まで進むと、そのまま滑り落ちて三悪道に行ってしまう。人間界には多くの人は残らず、人数はますます少なくなっている。
現代の文化や知識は人にポジティブなエネルギーをもたらすことができず、人類の思想や品德を高めることができず、心を昇華させることができない。仏教界の知識や理論も同様に、仏教徒の個人の修養や素質を向上させてはいない。ごく一部の素質が高く覚悟のある人を除いては。では、素質が低く、修養や徳のない人の生存の質が良くなり得るだろうか。良いか悪いかは、この数年の世界の大環境を見れば分かる。さまざまな災難、天災人禍が頻発し、小規模な戦争は絶えず、大規模な戦争が起こらないとは保証できない。人心はより利己的になり、皆近視眼的で、目の前の一寸四方しか見えず、長期的な計画は立てられず、来世のことなど考えられない。世界全体の情勢と行方から見ると、人類は非常に楽観的ではない。
では、より長期的な視点から見ると、三世の因果から見ると、人類の運命に影響を与えるのは、文化・知識・理論、ハイテクなのか、それとも人類自身の品德・修養・修行なのか。因果は何によって決まるのか。世俗の大衆が認識している文化知識、地位・権勢、富などの人類の身分を表すものによって決まるのか、それとも人類の思想品德、具体的で実際の身口意の行いによって決まるのか。もし前者ならば、古今東西のあらゆる成功者、名声や富貴を得た者は、今どこにいるのか。六道の中を探してみると、どの道にいるのか。人身を得た者はどれだけいるか。天に生まれた者はどれだけいるか。三悪道にいる者はどれだけいるのか。なぜ昔の皇帝や貴族たちは死後に三悪道に堕ちたのに、今報道されている社会の底辺の農民や普通の人々には直接再び人に生まれ変わる者がいるのか。このような因果は何によって決まるのか。
私はかつて一人の弟子に言った。子供の教育について言えば、文化知識はだいたいで十分であり、他人と競い合う必要はない。高額な費用を払って生死輪廻に無益な知識や、自身の品行に関係のない理論を学んでも、それらは生死の趣向を決めることはできず、かえって生死の業を増やすかもしれない。人はもっと実直であるべきだ。何が実直かというと、生死の大事に関わるものが最も実直なのである。その他はいい加減でよく、すべて重要ではない。前途だの、富貴だの、人より優れていることだの、すべて必要ない。高く遠くを見据え、大志を抱き、世俗の流れに身を任せて漂うことなく、俗を脱してこそ良い未来がある。
私は中学に入ってから、勉強する際に実用性を考慮していた。いつも思っていたのは、この科目を学んで何の役に立つのか、あの科目を学んで何の役に立つのか、ということだ。役に立たないと思ったものは、いい加減にやり、真剣に学ばなかった。特に暗記が必要な文系科目は、概ね学ばなかった。高校時代は、勉強する際に先生の態度を見ていた。態度が良ければ真剣に細かく学び、態度が悪ければいい加減にやった。機嫌が良い時は成績で一番を取り、機嫌が悪い時は中の上あたりをうろうろしていたので、先生は私に何も言えなかった。大学に入ってから、私はすべての科目を一つずつ評価してみて、90%の授業は役に立たないと分かった。そこで課外の本を学び、邪魔が入った時は大学の図書館に行って読書した。読むべきものがないと分かると市の図書館に行って読書した。毎日教室に行って様子を見て、授業が始まる前に立ち去り、授業が終わってから自分で教室に戻って本を読んだ。試験はすべて一夜漬けだったが、なんと不合格はなく、追試も必要なかった。そのようにいい加減に学生時代を終えた。
人は実直でいよう。実直なものはすべて俗を脱している。俗っぽいものはすべて実直ではない。実のないものは長くは続かず、いつ消え去って跡形もなくなるか分からない。追いかけようとしても、どこを追いかければいいのか分からない。
心は万物の主であり、四季の移ろいとともに凋むことはない。世間法において心の行いを重視しなければ、良い果報は得られない。出世间法においてはなおさらである。仏道を学び修行するということは心を修めることであり、目標は心の行いを変えることである。心はすべての修行の目標である。心の行いや心性を重視せず、ただ理論的な知識を研究し、術を弄ぶのは、本を捨てて末を追う行為である。多くの人がただひたすら本を読み、研究し、思い巡らし、想像するだけで、心性の問題にはまったく関わらない。三十七道品を修めず、菩薩の六度を行じず、菩提心も発さず、ただ結果だけを欲しがる。結果とは何か、結果はどこから来るのか、結果が何を表すのかを知らない。功利的な心が強く、近道を歩もうとするが、結局は最も遠回りをすることになる。心が根本であり、近道とは心を修めることである。心が良ければすべてが良く、心が悪ければすべてが悪い。知識や理論、さまざまな術は、もし心と関係がなければ、術はただの術にすぎず、結果はない。
果とは何か。実は根本的に果などない。いわゆる果とは、心の純正さの程度、清浄さの程度を言葉で表現し説明したものである。心が清浄で純正でなければ、果という言葉で表現することはできない。果は心の清浄な状態を表している。心が清浄でなければ、術を用いても果を得ることはできない。
数ヶ月前、私は八正道についてもう一度詳しく話したいと思った。何が正なのか、どのような面でどの程度の正を達成すれば八正道が満たされたと言えるのか、証果の条件が具足し、我見を断つことができるのかを詳しく論じたかった。今に至るまで、その時間を捻出できていない。七覚支、八正道、三十七道品の修行を重視する人は多くない。これらは心を修めるものであり、見道の条件である。現代の人は近視眼的で、無知で功利的に結果だけを追い求め、過程や前提条件を顧みない。そのようなことでどんな果があるだろうか。生死輪廻の果、三悪道の果、それ以外には何もない。
ほとんどの仏教徒は菩提心を発することができず、願力や願行もなく、仏教のことは構わず、衆生のことも顧みない。目をつぶって自分のことだけを考え、非常に利己的で、得ることだけを考え、出すことを考えず、ましてや報恩など考えない。上に四重の恩に報いることなど、自分には関係ないと思っている。他人が自分にしてくれた恩徳は、当然やるべきことであり、自分は自分のことで手一杯で、恩など構っていられない。四重の恩を平然と負ったままで、何の愧じることもない。自分に恩の深い三宝の団体に対して、一片の報いや奉献もない。一滴の恩には泉の水で報いるべきなのに、自分は泉のような恩に対して一滴の水で報いることさえ惜しむ。このように恩義を知らない人は、どれだけ多くの法を学んでも、どれだけ多くの知識を得ても、少しの実際の利益もなく、死ぬべき時にそのまま死に、輪廻すべき時にそのまま輪廻する。
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