色界の天人には初禅から四禅までのじょう(定)がある。初禅の天人は鼻と舌を持っているが、鼻識と舌識はない。二禅以上の天人は五根を持っているが、前五識はない。無想天の天人は前五識がないだけでなく、意識もない。五根と五塵の根塵の色法が存在するのに、なぜ心法である五識と意識が生じないのか。それは、六識は意根のために用いられるものであり、意根が六塵の境を了別する必要がなければ、六識は必要なく、六識は自然に生じないからである。
六識が生じるかどうかを決めるのは意根である。意根がじょう(定)の中で塵境を受用する必要がなければ、六識が生じる理由はない。それゆえ、衆生の身口意行は意根が主宰しているのであり、身口意行の善悪の属性は意根の心所法によって決まる。すると、意根は一切の煩悩心所法と善心所法を具えており、修行の程度に応じて、一切の心所法は常に変化し、増えたり減ったりする。ある法を意根が受けて初めて六識が生じるのであり、受心所法が六識の生起と善悪の属性を決定する。それゆえ、意根は一切の心所法を具えることができるだけでなく、三種の受を持つこともでき、捨受(upekṣā-vedanā)のみであるということはない。
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