夢を見ているときには、第八識、意根、独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) の三者がある。夢の世界を主宰しているのは意根であり、意根は清醒していることもあれば、糊涂していることもある。独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) も清醒していることもあれば、糊涂していることもある。第六識・第七識が清醒しているか糊涂しているかを決める要因は、両者の定 (samādhi) の力と智慧による認識にある。通常、修行の定 (samādhi) の力が十分でない人は、夢の中ではあまり清醒しておらず、夢を見ているときに自分が夢を見ていることを知らない。夢中で夢と知ることができるのは、一般に頭脳が明晰で、ある程度の定 (samādhi) の力がある者である。夢の中で夢と知る者は誰なのか。傍観者が夢の世界を観ているのであり、夢の世界の主人は意根であり、この傍観者こそが独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) である。神様は夢の中で比較的清醒しており、夢の世界に随って転じないので、自分が夢の中にいることを知り、夢の世界を知ることができるのである。
独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) が清明でないときには、夢の中で夢の世界に随って転じ、うっかりして夢の世界を真実と見なしてしまう。独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) が清明なときには、一般に意根も清明であり、夢の中で主宰者となることができ、善悪是非を知り、悪業を造らず、さらには念仏 (buddhānusmṛti) などを知ることさえあり、昼間とあまり差がない。夢の中で主宰者となることができてこそ、臨終のときにいくらかの把握があり、業に随って漂流しないで済むのである。もし夢の中で主宰者となれず、業に随って転じるならば、中陰身ではなおさら主宰者となることができず、業障が主宰となって漂流することになる。夢の中でも、独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) と意根との間では相互に影響し合っており、意根は依然として独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) を主宰することができ、独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) も依然として意根に影響を与えることができる。それゆえ、夢中で夢と知るということは、意根と意識の二者がともに比較的清明であるということなのである。
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