衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
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日常法話

2019年03月09日    土曜日     第1開示 合計1321開示

現量の知とは何か

現量の知は直観的な現れであり、法が出現すると即時に知られる。非常に迅速で、分別によらず、言語的思考や表現を経て初めて知るのではない。例えば『般若心経』に「観自在菩薩は深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊皆空なりと照見した」とある。ここでの「照見」とは現量の知である。もし意識のみで五蘊皆空を知るならば、即時に知られるのではなく、意識による思考分析を経て初めて知るのであり、これは照見ではない。「照見」という言葉は、その場で現量が現れる意味であり、論理的思考による分析整理を要せず、そのままの姿を直ちに知ることを指す。これが意根の知であり、意根の証である。

『大梵天王問仏決疑経』に「諸仏の密意は言辞をもって測りがたし。何となれば、この法は思量にあらず、思量分能解にあらず、即ち是れ唯仏と仏のみ能く法を究尽す」とある。これは、無上甚深の仏法が意識心の覚観思考で測り得るものではなく、仏法は意識による思量で理解できるものではない、ただ仏と仏のみが究竟的に明らかにし得る法であることを意味する。真に現量を知る時は、常に言語なく思考なく、極めて直観的かつ迅速に知られ、中間過程を伴わない。「一縷の寒気が骨徹するほどの修練」を経ず、意識による浅薄な解釈のみでは仏法を得ることはできない。故に仏法の最終的な証は、必ず意根が明らかにする証であり、現量の知である。

禅宗の祖師は常に言う「知らんと欲すれば即ち知り、会せんと欲すれば即ち会す。思量すること何ぞや、思量すれば即ち中らず」と。過去の禅師が弟子の智慧を試し見道の有無を見る際、弟子に再考を許さず、あれこれ考えさせることを禁じた。例えば五祖が神秀和尚に見道を示す偈を作るよう求めた時、神秀和尚は一日一晩部屋を行き来し思考したが書けず、五祖は彼が見道せず人天福報を修めたのみと知った。禅師が弟子に問い、弟子が僅かに躊躇すれば、禅師は悟りがないと見抜き、一棒打つ。一つは懲戒、二つは啓発のためである。質問に対し相手が躊躇して答えるなら、答えに不純さがあると分かる。全て意識思考を経て知るものは真の知ではない。

現量の知とは、例えば目の前を猛スピードで車が突っ込んできた時、即時に危険を察知し避けることである。この知は現量の知であり、言語的思考分析なく、覚観なく、意根が直ちに危険と知り、主体として素早く避ける。ぐずぐずせず、意識で「これは危険だ」と分析し、その結果を意根に伝えるような過程では、回避が間に合わない。勿論、意識がこの現象に接触すれば危険と知るが、意根より現象への接触が遅れ、一歩遅れて知るため、往々にして後になって初めて恐怖を覚え危険を知るのである。

仏陀が衆生の無量劫前の事、無量劫後の事を知るのは、全て現量の知である。比較や推測、妄想、思考分析、推理といった意識分別作用は一切ない。故に如何なる人や事も仏陀を欺くことはできず、仏陀は全ての法を現量で知る。智慧が深遠であればあるほど現量の程度は大きく、意識の使用は少なくなり、反応はより直接迅速となる。

これほど多くの人々が意識を最重視し、仏法の実証を意識分別分析を以て修証の方法とすることは、確かに仏陀と祖師の意に背き、現量に背き、真理に背くものである。

——生如法師の開示
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