衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年02月11日    水曜日     第1開示 合計4607開示

言語の発生によって意識が末那識の道具であることを証明する

言葉が生じる前に、まず丹田に気を集める必要がある。気が集まる過程において、気は丹田にあるが、気場は体外に現れ、発散される。禅定の心が繊細な人ならば、この気場と気配、エネルギーの流れを捉え、これから起こることを予感することができる。何を発見しようとするのか?つまり、この人が話そうとしていることであり、その人の気場や表情、現場の雰囲気から、おおよそ何を言おうとしているのかが分かり、予測・予知する能力である。

優れた狙撃手が走る人を狙撃するのと同じで、その人が直線で走ろうと、S字に走ろうと、狙撃手はその人が次に到達する位置を正確に事前に予測し、その位置に向かって先に発砲すれば、走る人を成功裏に射殺できる。定力が強い人もこの予測・予知の能力を持っており、目の前の人が発する気配と気場に基づき、エネルギーのうねりを感じ取り、そのうねりの方向も知ることで、その人が何をしようとしているのか、口を開いて何を言おうとしているのか、どのような意味を表現しようとしているのかが分かるのである。

気が丹田に十分に集まると、身体の上の方への経路に沿って、臍、胸腔、咽喉、口腔へと移動し、歯や舌と一つに合わさると、言葉が生じる。禅定のある人は、話し手の口腔から気の流れが流れ出るのを感じ、震えるようなエネルギーが発散されるのを感じるだろう。気が十分である人ほど、話に迫力があり、コントロール力があり、感染力があり、人心を掌握しやすい。心が正しい人はこの中気が非常に十分で、影響力・感染力が大きく、人に与える印象は誠実であり、人を容易に納得させやすく、これもまたその人の徳による感召の結果である。

言葉は意識の行為による造作であり、身識(身体の認識)から離れることはできず、身識と共に感情や心意を表現する。しかし意識の造作は、気の流れが運行する最後に生じるものであり、気の流れの運行は意根(第七識、末那識)によって操作される。運行の前に、意根に表現したいという意欲があると、気を丹田に集めさせ、その後口腔へと運行させ、意識と身識が言葉を生み出すのである。ここから分かるように、意識とは意根が目的を達成するために用いる道具であり、意識は意根に奉仕するものである。

そうすると、意識が生み出す言語・文字・音声は、意根の目的性を代表するものであり、意根が主体となって生み出したものである。意識による身体的行為(身行)と心的行為(心行)もまた、意根の目的性を代表するものであり、意根が主体となって生み出したものである。そうすると、身・口・意の行いに含まれる煩悩性と清浄性は、意根の煩悩性と清浄性を代表するものであり、意根の煩悩と清浄が、煩悩性と清浄性を帯びた身・口・意の行いを造作したのである。ここから、意根の心所法(心の作用)には必ず一切の煩悩心所法と一切の善心所法、そして不善不悪の心所法が具足していることが分かる。これは意根が主宰識(主体となる識)であり、一切の法に対して根本的な決定作用を及ぼすことを説明している。


——生如法師の開示
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意根は単に無記だけではない

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