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日常法話

2026年02月09日    月曜日     第1開示 合計4605開示

金剛経講義・なぜ如来の得たる法は実も虚もないのか?

離相寂滅分第十四 原文:須菩提よ。如来の得たる法は、この法は実もなく虚もなし。

釈:須菩提よ、如来が修して得た法は、この法は実有でもなく虚妄でもない。

如来は究竟いかなる法を得るというのか。なぜ無実でしかも無虚なのか。如来の成就した法を簡潔に概括すれば、五蘊身を有する如来は一切の染汚と無明を除き去り、最終的に無上正等正覚を証得し、無上菩提を円満し、無比荘厳なる三十二相を具足し、清浄荘厳なる仏国土を建立して、有縁の衆生を接引し、共に仏道を成ぜしめる。一方、五蘊身なき法身仏たる無垢識は、最終的に識を転じて智と成し、大千世界を照らす大円鏡智となり、その功徳性能は一切の法を円満普照し、知らざる法なく、覚えざる法なく、照らさざる法なし。

三十二相を有する報身仏・応身仏・化身仏であれ、無相の法身仏であれ、その得たる法は実もなく虚もなく、有もなく無もなし。もしこれらの法が虚であると言うならば、しかし諸仏は畢竟三十二相を具え、畢竟識を転じて智と成し、畢竟仏果を証得し、畢竟無量の衆生を広く度し、畢竟無数億に分身でき、畢竟無数の仏国土を建立し、畢竟一切種智を円満し、畢竟法にして知らざることなく、事にして円明ならざることなく、智慧清浘にして余すところなく、また畢竟無窮無尽の智慧功用と徳能を増し加え、円満に達して無上尊と成った。これらの法は、如来に実在し、虚構でも想像でもない。諸仏如来は三大無量数劫の辛苦なる修道により、忍び難きを能く忍び、行じ難きを能く行じ、衆生のため、仏教のために、無尽の心血と労苦を払い、その功徳は無数劫を以てしても説き尽くせず、讃め尽くせない。

もし如来の得たこれらの法が実であると言うならば、しかしこれらの法は畢竟生滅変異するものであり、無垢識によって幻化され、無垢識によって顕現されたものである。例えば如来の五蘊身もまた因縁によって生じ、縁滅すれば散ずる。それに随う三十二相もまた縁に随って散じ去る。縁が聚まれば、如来は再び無数無量の五蘊身と三十二相・八十種好を現起する。如来が衆生を度すために化現した仏国土は、縁起すれば即ち現れ、縁滅すれば即ち散ずる。縁が聚まれば、再び無数の諸仏国土を化現し、もって無量無量の衆生を受け入れ摂受する。ただ如来の無垢識・大円鏡智こそが、永遠永遠に変異することなき真実の法であり、実有にして虚妄ならざるものである。

原文:須菩提よ。もし菩薩の心、法に住して布施を行えば、人の暗きに入るが如く、則ち見る所あることなし。もし菩薩の心、法に住せずして布施を行えば、人の目有りて、日光明らかに照らすが如く、種々の色を見る。

釈:須菩提よ、もし菩薩が布施を行う時、心が六塵の相に住して布施を行えば、それはあたかも人が暗闇の場所に入り、ただ暗闇のみを見て、他には何も見えないようなものである。もし菩薩が布施を行う時、心が六塵の相に住せず、いかなる法にも住せずして布施を行えば、それはあたかも人が目を具え、太陽の光明が正しく照り輝く時、種々の色相を見て、暗闇に覆われることのないようなものである。

なぜ心が相に住する布施は、暗闇に覆われて色相を見られなくなるのか。この菩薩は、心の中が色相ばかりであり、ただ色相のみを認めるため、色相の背後にある真実の法相を見ることができず、心が色相に覆われるからである。その見る所は、全て虚妄の相であり、実相に相応せず、この菩薩は虚妄の相に繋縛され、究竟解脱を得られない。例えば菩薩が布施を行うのは、外貌の荘厳を得るため、富貴の果報を得るため、天に昇り享楽するため、他人の羨望を得るため、転輪聖王の王位と衆生への統治を得るためなどである。これらは全て世間の有為法であり、縁散すれば必ず滅する。このような心行は金剛般若の実相心に相応せず、心が空浄を得られないため、菩提の正果を得ることができない。

もし菩薩が布施を行うに当たり、六塵の相に著すれば、六塵の相の真実相を見ることができず、六塵が全て実相心によって変現され執持されるものであり、全て実相心たる如来蔵の功用であることを証得できず、無生忍と無生法忍を得ることもできない。相に住する布施は、有所得の心をもって世俗法を求め、その心量は狭小で、見る所は限られ、智慧は広くも大きくもないため、仏道を成就できない。もし菩薩が心を相に住せずして布施を行い、心に無所得であるが故に、菩提心と相契い、相符い、相応じれば、必ず菩提を証得できる。この菩薩は六塵の相に著しないため、我相・人相・衆生相・寿者相にも著せず、内心は空浄で、心に無所得であるため、時に随って諸法の実相を見ることができる。その心量は広大、福德は広大、無生智と無生法忍智も次第に広大無辺となり、速やかに仏道を成就し、菩提を円満するであろう。

原文:須菩提よ。当来の世に、もし善男子・善女人有って、この経を受持し読誦する能わば、則ち如来の、仏の智慧を以て、悉く是の人は知り、悉く是の人は見て、皆な無量無辺の功徳を得て成就せん。

釈:須菩提よ、未来の末法の世に、もし善男子・善女人が、心を尽くしてこの金剛般若波羅蜜経を受持読誦するならば、我は如来の有する清浄広大なる仏智慧をもって、これらの人々を全て知り、全て見て、皆が無量無辺の功徳を成就するであろう。

なぜ金剛般若波羅蜜経を受持読誦するこれらの善男子・善女人は、皆が無量無辺の功徳を成就できるのか。金剛経を聞くことができた人は、自己及び全ての衆生が金剛不壊の心を具足していることを知り、その福德は既に不可思量である。聞いた後、理に如く修行してこの金剛般若の実相心を証得すれば、その福德は更に不可思議である。その智慧も次第に深く広くなり、度す人天大衆も計り知れず、将来速やかに仏道を成就するであろう。金剛経を受持しようとするならば、必ずや金剛般若の実相心を証悟した者でなければならず、そうでなければ真実に信受できず、真実に行持することもできない。

行持とは、金剛実相心に依止して、七識心の染汚と無明を修除し、般若の大智慧を増長することである。読とは、解読し、如来蔵の般若義を了解することである。誦とは、その般若義が既に心に熟達し、深く心に植え付けられていることである。受とは、領受領納することであり、如来蔵を証得した後に、如来蔵の体性と運作を領受・観察・観行できることである。持とは、如来蔵に依止して、自らの心行を改めることである。故に如来蔵を証悟しなければ、真実に読誦受持できず、如来蔵法を広く宣揚できず、無量の衆生を広く度すこともできない。よって金剛般若波羅蜜経を受持読誦する善男子・善女人は、皆が無量無辺の功徳を成就できるのである。


——生如法師の開示
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