衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2025年11月25日    火曜日     第1開示 合計4534開示

金剛経講義・菩薩は如何にして心を調伏するか

大乗正宗分第三:この章は主に菩薩たちが四相を破り、人我見を断除する問題を述べており、これが大乗菩薩修行の根本であり正道であり、最も重要であるため、この章を正宗分と呼ぶ。菩薩は三界四生九有二十五類の衆生を教化し滅度して、皆を無余涅槃に入らせるが、同時に不如理な思惟観を起こしてはならない。つまり「これらの衆生は私が教化したものであり、私はこれほど多くの衆生を度した」と思ってはならない。菩薩がこのように考えるなら真の菩薩ではなく、真の菩薩は証得した般若実相の智慧を用いて四相を破り、心中に我相・人相・衆生相・寿者相があってはならない。

菩薩は如何にしてその心を降伏すべきか

原文:仏、須菩提に告げたまわく。諸の菩薩摩訶薩は応に是の如くにして其の心を降伏すべし。

釈:仏が須菩提に言われた。諸菩薩摩訶薩はこのようにして自らの心を降伏すべきである。

摩訶(マハー)は漢語で「大」の意であり、仏典における大菩薩は一般に明心証悟以上の菩薩を指し、賢人の品德を備える。厳密には登地以上の菩薩が初めて大菩薩・法身大士と呼ばれ、仏の一分あるいは多分の法身を証得し、一分あるいは多分の無生法忍の智慧を持ち、一分あるいは多分の道種智を有し、聖人の品德心性を備える。また分証即仏とも呼ばれる。

仏は菩薩摩訶薩たちがこのように心を降伏すべきだと説かれたが、降伏され得る心は必ず妄心である。真心は決して念想を起こさず、知見や考えがなく、三界六塵に攀縁せず、身口意行を造らず、清浄で煩悩がないため、これを降伏する必要はない。一方、妄心である七識には無明煩悩があり、常に相に執着して六塵万法に攀縁し、人我見・人我執・法我見・法我執があるため、降伏が必要であり、その無明を断除して智慧の徳用を生じさせねばならない。

七識の妄心を降伏しようとするなら、七識の機能作用を理解しなければならない。眼識は色を見て、青黄赤白や長短円方大小などの粗相を分別し、意識心は同時に良し悪し・美醜・趣き・気質などの細相を分別する。この中で好き嫌いなどの苦・楽・不苦不楽の感受が生じると、身口意行が現れる。耳識は声を聞き、高低・遠近・方向などを分別し、意識は同時に種類・意味などを分別して貪愛・嫌悪などの心行を生じ、苦楽不苦不楽の感受が生まれると、続いて身口意行が現れる。鼻識は香りを嗅ぎ、香臭や方位を分別し、意識は同時に香臭の種類・程度などを分別して好き嫌いの心行を生じ、苦楽不苦不楽の感受が生まれると、身口意行が現れる。

舌識は味を嘗め、酸甘苦辛を分別し、意識心は食物の種類・良し悪し・味の程度を分別して好き嫌いの心を生じ、苦楽不苦不楽の感受が生まれると、続いて身口意行が生じる。身識は触塵を覚え、冷熱・飢渇・飽満・軟硬などを分別し、意識心は同時に疲労・軽安・快適・倦怠などの法塵を分別して好き嫌いなどの心行を生じ、苦楽不苦不楽の感受が生まれると、続いて身口意行が生じる。意識心は前五識と同時に分別し、単独でも了別でき、過去を回想し未来を打算し、分析・推理・判断を行い、苦楽憂喜捨の感受を生じて次の身口意行を引き起こす。

意根もまた心であり、形状がなく如何なる相貌もない。無色根とも呼ばれ、無始劫より存在し、阿羅漢が無余涅槃に入る時に滅する。我執識であり、無始劫より一貫して自我に執着し、一切の法を私と私のものと見做し、前六識の機能を私のものと執着し、第八識の機能を私のものと執着する。貪・瞋・痴・慢・疑・邪見が絶えず現行し、業を造る根本である。常に六識を主導して自らの習慣に従って行動させるため、修行は主に意根を修行し変化させることである。意根は開悟して初地に入った後に一度変化し、八地菩薩時に一度変化し、成仏時に完全に平等性智に変化する。意識心は妙観察智に変わり、前五識は成所作智に変わり、第八識は大円鏡智に変わる。もし意根の我執性を断除し、自己への執着を止めれば、命終には自らの五陰十八界を滅して無余涅槃に入る。仏が降伏すべきだと言われたのはこの七つの妄心である。

原文:所有の一切の衆生の類。若しは卵生。若しは胎生。若しは湿生。若しは化生。若しは有色。若しは無色。若しは有想、若しは無想。若しは非有想非無想。我は皆な無余涅槃に入らしめて、而して之を滅度せしむ。

釈:全ての一切の衆生の類、卵生であれ胎生類の衆生であれ、あるいは湿生や化生類の衆生、あるいは有色や無色類の衆生、あるいは有想・無想・非有想非無想類の衆生であっても、私は彼らを皆無余涅槃に入らせて滅度させる。

三界の衆生は四生九有二十五種に分かれる。卵生とは有情衆生が母胎に住まず、父母から生まれず、意根が阿頼耶識を伴って直接卵殻に入り、外縁の温度などの条件が具足すると胚胎が生長し、殻を破って出るものを指す(鶏・鴨・蛇・鳥など)。胎生とは衆生が中有身の中におり、意根が阿頼耶識を伴って母胎に投じ、六根が生長成熟して母胎を出るものを指す。胎生には全人類・大部分の畜生・一部の鬼類・一部の阿修羅が含まれる。湿生とは一定の温度湿度条件の下(水辺・海辺・湿った土壌や空気中など)で生まれる無福の衆生を指す(各種昆虫・細菌・一部の阿修羅など)。

化生とは変化して生まれるものを指す(各層天界の天人・他国土の衆生・鬼神類の非人類衆生・地獄衆生・一部の阿修羅類及び一部の畜生類・神通を持つ菩薩羅漢など)。有色衆生とは色身が存在する欲界・色界の衆生を指す。色身は色陰とも呼ばれ、投胎して受精卵に入る時から出生を経て最後に滅するまでの形体をいう。阿頼耶識と前七識が住持するため色身に様々な身口意行の造作があるので色陰と呼び、そうでなければ死体や無情物(植物類・鉱物類)である。

欲界は六層天・人間・三悪道を含み、色界には十八層天がある。初禅天から四禅天まで十三層と、五つの不還天(無煩天・無熱天・善見天・善現天・無想天)があり、三果阿那含は五不還天で修行し、最後の煩悩と三界への貪愛を断じ尽くして四果羅漢を証得するか、無余涅槃に入るか、大乗に回心して再び転生し菩薩道を学ぶ。他の衆生は五不還天で修行し、色身を厭離すると色身を捨てて無色界に昇る。

無色界には四層天がある:空処天・識処天・無所有処天・非想非非想処天。無色とは色身・色法がなく、衆生には意識心・意根・阿頼耶識のみが存在し、心は定中にあって動かない。無色界の衆生も空想を修し、無余涅槃に入ることを目的とする。しかし依る空理が不究竟であるため修め出られず、依然として六道輪廻の中にある。あたかも仏の外道の師である鬱蘭頭弗(ウッタラ)が最高禅定である非想非非想定を修得し、この定中には想がもうないと思って涅槃の境界だと考えたが、実際にはその定中に極めて微細な想がまだあり、妄心がある限り三界を出ず解脱を得ない。仏は成道後、師を度そうとしたが、天眼で見ると彼はすでに非想非非想天に生まれており、再び定から出ることはない。そこで仏は「彼は天から下った後、三悪道に堕ちて苦しむであろう」と嘆かれた。

仏が涅槃に入ろうとした時、外道を修する120歳の老者(阿難の五百世の父)が非想非非想定を修得していた。仏は阿難に命じて老者を呼ばせ、「その定中にはなお微細な想があり、あの最も微細な覚知心もまた我ではない。それを滅すれば三界を出て解脱し、生死を超越できる」と告げた。老者はこれを聞いて直ちに四果羅漢を証得し、「私は仏が般涅槃されるのを見るに忍びない。我先に去ります」と言い終わると無余涅槃に入った。無余涅槃とは衆生が我見と我執を断ち、もはや執着がなく、自らの五陰と十八界を捨てることを願う状態をいう。こうして苦は頼るべきものを失い、苦を離れ苦を捨てる。全ての苦を滅すれば解脱して三界を出るのであり、自我は存在しない。菩薩たちは三界中の四生九地二十五類の衆生を度化し、彼らを教化して四果羅漢とし、生死を超越させ、命終には皆無余涅槃に入り解脱を得させる。

原文:是の如く無量無数無辺の衆生を滅度せしむれども、実に衆生として滅度を得る者は無し。

釈:世尊はさらに続けて言われた。菩薩たちはこのように無量無数無辺の衆生を滅度したが、実際には一人の衆生も滅度されておらず、度したが度された者は存在しない。

これほど多くの衆生を滅度したのに、一人も滅度していないとはどういう意味か。滅度とは先に述べた無余涅槃に入ること、すなわち五陰と六根六塵六識の十八界の自我を全て捨て去り、滅し尽くすことであり、そうすれば衆生は存在しない。五陰があれば衆生であるが、五陰がなければ衆生とは呼ばず、十八界がなければやはり衆生とは呼ばれない。つまり度された衆生は存在せず、単独で残る阿頼耶識も衆生ではない。したがって一人の衆生も度しておらず、決して一人の衆生も滅度を得ていない。たとえ五蘊十八界が滅びていない時でさえ、同様に衆生は存在しない。なぜなら五蘊十八界という相は幻化であり、有は仮の有であって真実の有ではなく、衆生と言うべき衆生は存在しない。それらは全て如来蔵の相貌であり、如来蔵の性質である。如来蔵は度する必要もないため、無量数の衆生を滅度しても、実際には一人も滅度していない。菩薩はこのように衆生を度すべきであり、衆生を度すという想いを持ってはならない。


——生如法師の開示
前へ前へ

善現啓請分第二

次へ 次へ

金剛経講義・菩薩と非菩薩を見分ける基準

ページトップへ戻る