須菩提は即ち善現であり、釈迦仏の弟子の中で空を解する第一人者である。彼は母胎の中にいてすでに万法が空寂であることを知っており、これは前世の多劫にわたって積み重ねられた深い善根によるものである。彼は入胎・住胎・出胎のいずれにおいても迷わず倒れることがなく、生まれたばかりの時、家の財宝がすべて空になって消失したが、数日後にはまたすべて自然に現れ、すべてが空であること、有るものも仮の有りであることを示した。須菩提を長老と尊称するが、長老とは大衆の中で威望と威徳のある人、三毒の煩悩と相応しない人を指す。須菩提は小乗の空法を修して阿羅漢果を証得したが、世尊が大般若経を講じられた時に大乗に回心し、菩薩道を歩んだ。仏が経を講じる時はいつも何らかの因縁を借りて引き金とし、題を借りて一つの経典を講じるのであり、特に重要でない限り、誰も啓請せずに経を講じることは稀である。この経典は須菩提によって啓請されたものである。
原文:その時、長老須菩提は大衆の中にあって、即ち座より起ち、右肩を偏袒し、右膝を地に着け、合掌恭敬して仏に白して言う。希有なるかな世尊。如来は善く諸菩薩を護念し、善く諸菩薩に付嘱したもう。
釈:世尊は食事を終えてちょうど結跏趺坐をなさったばかりである。須菩提は即ち大衆の中から座席より起立し、右肩を露わにし、右膝を地に跪き、合掌恭敬して仏に問うて言う。希有で難見の世尊よ、如来は常に善く諸菩薩を護念し、善く諸菩薩に付嘱なさる。
世尊はなぜ希有で難遇なのか。
須菩提はまず世尊を世の中で最も希有で、得難い聖人であると讃嘆した。世尊は確かに希有であり、一つの三千大千世界にはただ一尊の仏しかおらず、一つの日月天は四大海の下にある地獄から地球、須弥山に至り、上は欲界の六層天までを一小世界と呼び、一千の小世界に色界の初禅天を加えたものが小千世界、一千の小世界に色界の二禅天を加えたものが一中千世界、一千の中千世界に色界の三禅以上の天界を加えたものが一大千世界である。これほどの大世界にただ一尊の仏しかおらず、しかも形を留めて世に住する時間は極めて短く、前後の二尊の仏が相距る時間もまた長い。ただ釈迦仏と弥勒仏が最も短く五十六億七千万年隔てており、相距る時間が比較的長い場合は、多くの場合数大劫、数十大劫にも一尊の仏すら出世せず、さらに久遠にも一尊の仏すら出世しないことさえある。ここから見ても世尊は確かに非常に希有で難遇であると言える。
如来という呼称は衆生の性体から言うものであり、如来は真如より来たり、真如は真実にして如如不動の性体である。真如あれば如来あり、真如なければ如来なし。仏の如来蔵の中では、七識の無明がことごとく断じ尽くされ、もはや熏染を受けることもなく、変易することもないので、常楽我浄の真如と称される。一方、衆生の如来蔵には悪業の種子が含蔵され、一念の無明、無始の無明、塵沙の無明が含蔵され、分段生死と変易生死の種子があり、含蔵識とも称される。修行を通じて、衆生の如来蔵の中の悪業の種子は絶えず減少し、善業の種子は絶えず増加し、無明は少しずつ減り、明は少しずつ増え、如来蔵全体は絶えず変動を起こしている。したがって、まだ真の如ではなく、仏の真如とは一定の区別がある。
しかし如来蔵の本体は如如不動であり、色が来ても見ず、声が来ても聞かず、香が来ても嗅がず、味が来ても嘗めず、触塵が来ても触れず、法塵が来ても知らず、六塵の境界に対して完全に無関心で、決して心を動かして念を生じず、六塵に転じられることもなく、真実と如如の性を有している。如来蔵は時に真如とも称され、自ら変わらないことを真如不変異と言う。如来蔵そのものはあたかも清浄な杯のようであり、七転識は杯の中の水のようである。水には清浄と染汚の区別があり、杯の水は無垢と雑染に分かれる。衆生の七転識は染汚されており、種子が真心という杯の中に存在するため、真心は垢を蔵し、注ぎ出される水は汚水となる。したがって衆生の真心は如来蔵、阿頼耶識、異熟識などと称される。一方、仏の真心は染汚されていないので無垢識と称される。修行とは七転識を浄化し、無明を破ることであり、無明を破るには如来蔵の理を学び、すべてを完全に通達して仏となることである。
如来はいかにして善く諸菩薩を護念するのか。
一人の衆生が凡夫の十信位から修行を始め、十住位、十行位、十回向位を経て、さらに十地・等覚・妙覚の五十二の階位に至るまで、各段階は仏の加護と護念を離れることはできない。そうでなければ業障に遮られ、上に向かって熏修することができなくなる。したがって仏恩は浩蕩であり、仏とならなければ報いることができない。では、これほど多くの衆生を仏はすべて護念することができるのか。すべて護念することができる。なぜなら仏は一切種智とも呼ばれ、智慧の徳能が円満に具足し、世及び出世間に知らない法は一つもなく、十方世界のすべての衆生の心に念じることを仏は知り、すべての衆生の無量劫のことを仏は知り、さらに十方世界で同時に雨が降る時、総計いくつの雨滴があるかさえ仏は知っているからである。仏は衆生の心を知ることができるゆえに、衆生の修行を護持し、衆生が各難関を越えるのを助け、ついには仏となるまで導くことができる。
菩薩は十信位から修行を始め、三宝への信心を修め、仏の三十二相八十種好を理解し、菩薩道を劫を経て修行する因縁、仏の十の名号の功徳内容、仏国土の形成範囲を理解して、向往の心を生じさせる。さらに仏が講じた三蔵十二部経の粗浅な内容、三帰五戒の内包を理解し、さらに僧宝、凡夫僧・住持僧・勝義僧とは何か、および一体三宝・自性三宝を理解する。こうして迷信から仰信・崇信を経て正信に至り、十方世界に真に仏法僧の三宝が住持していることを信じ、十方の衆生はすべて真如仏性を有し、すべて仏となれることを信じ、自分も仏となれることを信じ、仏となる信心を具足して、十信位は修満となる。この中でどれほどの時間を修めるかは、個人の善根福徳の深浅と精進度によって決まるが、このすべての修行は仏陀の護佑を離れることはできない。
この段階の修行が円満した後、仏陀は菩薩を護念して三賢位の修行に転入させる。初住位では布施を修め、福徳資糧を集積し、明心見性のための道糧を準備する。二住位では持戒を修行し、悪を断ち善を修め、心を清浄に転じ、妄りに縁を攀じない。三住位では忍辱を修め、世俗の法・人事・物理に対する忍と如来蔵大乗の無生法理に対する忍を含む。四住位では精進を修め、布施・持戒・忍辱・禅定のすべてを精進する。五住位では禅定を修め、心が一つの境界および大小乗の法理に住して動揺せず、未到地定に達し、小乗の空と大乗の空性心を観行する能力を得る。六住位では般若智慧を修め、相対的に円満になると明心ができ、如幻観が生起した後、万法がことごとく虚妄であることを了知し、一切法はあたかも魔術師が幻化したかのようであり、また空中の雲霧のように実体がないことを知る。
十住位を修め終えると十行位の修行に転入し、陽炎観を証得して、万法が蜃気楼のように空幻であることを感得する。蜃気楼の現象はこうである。太陽が砂浜を照らす時、熱気が返り上って一種の幻化した光景を形成し、あたかも楼閣・車馬・人物があり、しかも人馬がまだ動いているようだが、近づいて見ると何もない。陽炎の現象はこうである。鹿は渇きがひどいため、遠く砂浜を望んで幻覚で一条の河を見たと思い、走って行って見ると砂浜に一滴の水もない。衆生はあの渇いた鹿のように虚妄に一切法を見る。
この法を修め終えて禅宗の第三関である生死牢関を過ぎると、十回向位に転入して夢観を修め、万法が夢のようであることを証得する。夢を見る時、夢の中の一切人事物はすべて真実のように見える。そこで夢の中で喜怒哀楽し、夢境に執着して掴もうとするが、目覚めると一本の毛さえ見つからず、頬には悲喜交々の涙が掛かっている。衆生が目覚めている時も夢を見ている時と同じで、少しも世間の虚偽不実を感じず、夢の中で来たり夢の中で去り、ただ目覚めないだけである。この時さらにいくつかの道種智を加修すると初地に転入し、聖人となり、仏となる道はすでに三分の一を歩み終えたことになる。
この修行の全過程において、菩薩は生々世々、諸仏の加護と護念を離れたことはない。菩薩が世楽を貪り修行を忘れた時、仏陀は無常をもって警告する。菩薩が出家修行しなければならない時は、密かにその世俗法上の道を遮止する。菩薩が小乗に耽った時は、大乗の道へと導く。菩薩が衆生を度する能力がある時、仏陀は十方の有縁世界に赴いて衆生を度すよう手配する。菩薩が不覚にも三悪道に落ちた時、仏陀自らまたは菩薩を派遣して救済する。菩薩が四果阿羅漢を証得して涅槃に入ろうとする時、仏陀は巧みな方法で菩薩を諭し、形を留めて世に住し、自利利他して仏となるまで涅槃に入らないようにさせる。これらすべてが仏陀の菩薩たちに対する護念と付嘱である。仏陀の慈悲は父母の千万億倍を超え、言葉では言い尽くせず、仏陀の恩徳は語り尽くせず、讃め尽くせない。
これは有形の報化身仏の衆生に対する護念であり、最も重要なのは法身仏の護念である。その護念は並大抵のものではなく、欠くことができない。菩薩が三大無量数劫の修行の中で、自身の如来であるこの法身仏は一刻たりとも菩薩を護念することを離れず、菩薩たちが修道に必要な一切の種子を供養し、菩薩が修行によって得た道業の種子を貯蔵し、少しの欠落も漏れもない。こうして善業の種子が具足して初めて、菩薩は仏道を成就することができるのである。
原文:世尊よ、善男子善女人、阿耨多羅三藐三菩提心を発し、云何に応に住すべきか。云何が心を降伏すべきか。仏言う。善き哉、善き哉、須菩提よ。汝の説く如く、如来は善く諸菩薩を護念し、善く諸菩薩に付嘱したもう。汝今よく聞け、当に汝が為に説かん。善男子善女人、阿耨多羅三藐三菩提心を発し、応に是の如くに住し、是の如くに其の心を降伏すべし。唯然、世尊よ、願わくは楽欲して聞かん。
釈:須菩提はさらに問う。世尊よ、善男子・善女人が阿耨多羅三藐三菩提心を発し、どうすれば安住すべきか、どうすれば心を降伏すべきか。世尊は答えて言う。素晴らしい、須菩提よ、正にあなたの言う通り、如来は確かに善く諸菩薩を護念し、善く諸菩薩に付嘱なさる。あなたは今よく聞きなさい、私は今あなたのために説こう。善男子善女人が仏となる菩提心を発した後は、このように安住し、このように自らの心を降伏すべきである。須菩提は表明する。はい、世尊よ、私は心からお聞きしたいと思います。
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