大乗正宗分第三 原文:何故か。須菩提よ。もし菩薩に我相・人相・衆生相・寿者相あれば、すなわち菩薩に非ず。
釈:なぜこう言うのか。須菩提よ、もし菩薩の心にまだ我相・人相・衆生相・寿者相があるならば、その者は菩薩ではない。
これは菩薩と非菩薩を判別する基準である。金剛経では四相の有無を以て、菩薩と非菩薩を判別する基準としている。これはつまり、菩薩が衆生を度した際、心の中で「私が衆生を度した」「私がこうしたことを行った」「私が苦労を払った」「私が衆生に利益をもたらした」「私は功徳と福徳を得た」と考え、功績を誇り慢心が激しく燃え上がれば、心の中に我相が現れるのは明らかな凡夫の考え方である。この者は心に「我」が存在しており、我見を断っておらず、すなわち凡夫であって菩薩ではない。
もしこの者が「これらの衆生は皆私によって度化された」「あの衆生は皆仏法の利益を得た」「全ての衆生は私に感謝し、私を敬い、私に報いるべきだ」「皆私の号令に従い、私の指導に服従すべきだ」と考えるならば、心の中に衆生相も同時に現れる。これは明らかに凡夫の考え方であり、この者は凡夫であって菩薩ではない。真の菩薩の心の中は三輪体空であり、我相がなく、「私がとても優れている」「私が衆生を度した」という執着もなく、施恩の感覚もない。また衆生相もなく、「確かに存在する衆生が私によって度化され、私の恩恵を得た」という執着もなく、私が衆生を度す過程におけるこれらの事業や度化の過程、功徳や福徳も存在しない。
衆生を度すという事は、度したのでもなく度さなかったのでもない。菩薩がどれほどの事業を行っても、心は空寂であり、まるで何も行わなかったかのようである。行った後は即座に手放す。常に心に留め置かず、心の負担となることもなく、それをもって人に号令したり、人を操ったり、見返りを求めたりすることはない。あるいは世間の利益を得るための駆け引きとして利用し、名声や利養を大々的に求め、世間での優越を求めることもない。「私が一番でなければならない」「私が唯一でなければならない」と常に「私、私、私」であり、私を離れては何も成し得ない、さらに甚だしければ私以外の全ての人を排除し打圧する。そうすれば心の中に人相が現れ、なおさら菩薩ではない。凡夫相が十分にある者は、すなわち十分な凡夫である。
ある人物が菩薩か非菩薩かは、全ての言行や行いの中に現れる。心の中の考えに加えて外に現れる行動こそが、その人物の真の姿である。たとえ隠そうとしても、完全には隠しきれない。なぜなら心の中の「我」は隠しようがなく、機会さえあれば必ず頭をもたげるからである。我見を断っていない者は経験がないため判別しにくいが、我見を断った者には一見して見破られ、経験者や明眼人を欺くことはできない。よって、楞厳経だけでなく金剛経も同様に迷いを映し出す鏡であり、四相ある者は菩薩ではなく聖賢でもなく、四相なき者こそが真の菩薩、真の賢聖である。これが最も基本的な判別基準である。
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