衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年11月16日    日曜日     第1開示 合計4526開示

どのような場合に自ら誓願を立てて戒を受けることができるか?

問:もし自分で発願して戒を受けようとする場合、黙って持戒したり、心の中で仏に戒を求めて受戒し、伝戒師に戒を求めなかった場合は、受戒とみなされるのでしょうか?もし破戒した場合、破戒罪があるのでしょうか?自律によって戒行がほとんど犯さなくなったときに、改めて受戒師のもとへ戒を受けに行ってもよいのでしょうか?

答:心の中で仏に戒を求めたとしても、形式上戒を求めず戒を受けていなければ、仏菩薩や護法神は戒を授けに来てはくれないので、受戒や得戒にはなりません。戒を受けて得ていないときの持戒は、持戒には属しませんが、福と徳は生じます。持戒には戒の福と功徳がありますが、戒がなければこの持戒の福徳と功徳はありません。

自分の行為を律して自覚的に戒を守り犯さないことができるようになったときは、寺院の僧のところへ戒を授けてもらいに行くべきです。なぜなら戒は僧宝のそばから求めて受ける必要があり、在家菩薩戒は在家の受戒居士が伝戒することができるからです。もし四十里の範囲内に僧宝がいなければ、仏前で自誓受戒することができますが、自誓受戒にも受戒の形式が必要であり、諸仏菩薩が密かに戒を授けてくれます。伝戒する人の戒行が清浄 (viśuddha/pariśuddha)であればあるほど、受戒する人は戒体を得やすくなり、戒品も高くなります。伝戒する人がもし破戒して戒体を持っていなければ、その伝戒には効果がなく、受戒する人は戒を得ることができません。戒を得ていないのですから、破戒ということはありません。


問:どのように懺悔すれば業を速く消せるのでしょうか?

答:悪業を造ったことのある人、身口意行が法に適わない人は、公に懺悔すれば業が速く消えます。口業の重い人は、公に懺悔すれば、再び犯しにくくなります。心を降伏させれば、身口意行は次第に清浄 (viśuddha/pariśuddha)になっていき、染汚は次第に清浄 (viśuddha/pariśuddha)へと転じていきます。良師益友と多く交われば、受ける利益は非常に大きく、邪師・悪友・損友と交わらなければ、善法財は増えるばかりで減ることがありません。人と交わるなら君子と交わるべきで、小人と交わってはなりません。小人を転ばせて度化する能力があるのでなければ、小人の言うことに耳を貸し従っていれば、自分自身もすぐに小人になってしまいます。

過ちを犯した後、相手(二人の間で)に懺悔するのと大衆の前で懺悔するのとでは、効果がまったく異なります。大衆の前で懺悔すれば、業が多く速く消えます。なぜなら過ちが人に知られた時点で、受報したことに相当し、知っている人が多いほど受報も多く、同時に自分自身への拘束力も大きくなり、業が速く消えるからです。もう一つは仏前で懺悔するという方法ですが、一般の人には仏前での懺悔はあまり効果がありません。なぜなら仏を自分の目の前に実在するものとして捉えていないため、誠心が足りないからです。大衆の前で懺悔するのが最も効果的で、改めるのが速く、人から譴責されるほど業が速く消えます。だから皆、何かあれば面と向かって言うべきで、陰で言ってはなりません。陰で言うのは誠実さに欠け、是非を流布する嫌疑があり、他の人が過ちを知り改めるのにも不利ですし、人に業を背負わせることにもなります。面と向かって誠実に言えば、人が知って改めるのに有益であり、自分も福を得ることができます。

大業を成し遂げたい人は、自分に対して厳しくならなければなりません。自分の欠点を安易に見過ごしてはなりません。ある種の道理は、一度心理的な関所を越えてしまえば、すべての事はもはや事ではありません。無我の人の内心は坦蕩として軽やかで、大したことなど何もなく、面子さえも重要ではありません。自分に厳しくすることは何も悪いことではなく、目に砂を入れてはならず、自分の過ち、とりわけ貪瞋痴の煩悩を許してはなりません。


——生如法師の開示
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犯戒か否かを判定する根本は用心を見ることにある

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