出家者の立場から言えば、在家信者に三帰五戒を授け、さらには菩薩戒を授けることは当然の務めであり、出家者が必ず担うべき責任と義務である。能力がある時には衆生を広く救済することも当然の責任と義務である。なぜなら、出家者は発心して出家修道し、衆生から供養を受ける以上、衆生に奉仕する義務があるからだ。
しかし、衆生に奉仕し、三帰五戒や菩薩戒を授ける行為そのものは、在家信者の業障をある程度背負うことになる。この代償は大きくなりうる。大げさに言えば、金銭で測ろうとしても、いかなる金額も業障の前では無意味である。衆生はこの世でどれほど金を費やしても、業障による重圧や束縛から逃れられず、業障がもたらす生死輪廻の苦しみから解放されることはない。出家者が衆生に奉仕し、広く救済すれば、意図的であれ無意識であれ、これらの業障を背負うことになる。この業障は世俗生活と修道の両面で様々な障りを引き起こす。自らの修道と世俗生活にわざわざ障りを設けようとする者がいるだろうか? 人が他人の業障を背負うことでどのような影響を受けるか、またその中で衆生がどれほどの利益を得ているかを理解できる者はいない。衆生が「当然の務め」と感じる一方で、感謝の心や慚愧の心を抱いている者はどれほどいるのか? 誰もが他人に要求する時、自分自身には何を求めているのだろうか?
医師の職業を例に取れば、誰もが医師の治病救人は当然の務めだと思う。なぜなら彼らはそれによって仕事と金銭的利益を得ているからだ、これは等価交換だと。しかし、この取引が本当に平等か考えた者はいるだろうか? 医師が人を救った後、どれほどの業障を患者のために背負うのか? この業障が医師にもたらす影響と結果はどのようなものか? 患者の苦痛を見るだけで受ける精神的プレッシャーや、病氣を含んだ磁場の衝撃に耐えるだけでも、慚愧の念や心痛み、憐れみを感じさせる。ましてや毎日多くの患者の苦痛に向き合い、さらに自らその病苦を解決しようとすれば、心身両面に及ぶ影響とプレッシャーはどれほどの煩悩を増し、どれほどの病氣を持ち帰り、どれほど寿命を縮め、どれほどの患者の怨親債主(怨みを持つ霊的存在)の恨みを買うことか? これらのことを誰も考えたことがないからこそ、医師に対して感謝や同情の念を抱くことは自然に生まれないのだ。
次に患者の立場から見てみよう。患者の命が救われた後、患者はどれほどの利益を得るのか? 患者の健康と命の価値がどれほどかを考えた者はいるだろうか? この価値は計り知れない。非常に多くの人が一生を無為に過ごし、何の成し遂げることもなく、むしろ他人の養いを受けながら生きているとしても、それぞれの限られた人生の中で、人は皆、人間の習氣を薫習し、人として生きることを学び、意識的・無意識的に福德と福報を積み重ね、自らの生命の質と品位を高めようとしている。
この観点から言えば、あらゆる生命、畜生の命さえも、非常に大きな価値を持ち、極めて貴重である。衆生に貴賤の差はなく、皆より高次の生命へと向かう過程にある。この過程は必要不可欠であり、廃棄も取り消しもできない。この過程がなければ、生命の経験と福德を積むことはできず、より高次の生命集団へと昇華し、生命を開花させることはできない。だからこそ俗に「死ぬよりはましだ(好死不如赖活着)」と言われるのだ。衆生は智慧が浅く、表面的な金銭の取引しか見えず、背後にある実際の利益と得失が見えない。たとえ利益を得るか否かにかかわらず、あらゆる人の奉仕と努力を尊重することは、自らの生命を尊重することに他ならず、その意義は極めて大きいのである。
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