衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年11月15日    土曜日     第1開示 合計4525開示

破戒か否かの判定の根本は心の在り方にある

問:もし五戒を受持した場合、師匠が例に挙げたような盗み(家族の物を取って人に贈る行為)も犯してはならず、破戒となるのでしょうか? この善意による盗みは、五戒を受持する前にのみ許されるのでしょうか?

答:盗戒を犯したかどうかは、主に盗心があるかどうか、物を盗んで自己の手元で享受する目的があったかどうか、相手の利益を損なったかどうかによります。そのような悪心がなく、むしろ相手を利益しようとする善心があれば、盗みとは見なされません。戒律も因果も心が主体であり、善心には善報が、悪心には悪報があります。これらの問題は総合的に考慮する必要があり、最終的な結果が善か悪か、利益が大きいか害が大きいかも考慮すべきです。利益が大きければ行い、害が大きければ行ってはなりません。他者を利する菩提心が最も重要であり、また最も尊いのです。もし考慮が明確でなく、利他心が起こらないならば、厳格に戒律を守り、細心の注意を払い、少しも冒涜せず、大小乗の戒律はいずれも同様です。

ある程度修行を積んだ菩薩の内心は善が多く、ほとんど悪はなく、人を損なって己を利することはなく、行うことすべてが衆生の利益のためであり、自己の得失は考慮しません。したがって、ある事柄については気にせず、結果が善であれば、過程の表面的な不善は考慮しません。私は修行のため、弘法のために、いくつかの小乗戒は守ることができません。もし小乗戒を守れば修行ができず、大乗戒を必ず犯すことになります。大小乗の戒律を秤にかければ、もちろん大乗戒が重要であり、衆生が重要であり、仏教の発展が重要であり、私個人は重要ではありません。しかし、個人が決して戒を犯すことはなく、罪報を受けることもありません。なぜなら、実際には罪なく功徳があるからです。

鳩摩羅什大師は東インドから中国に渡来して弘法されました。皇帝は大師を留めるため、数人の女性を娶らせました。もしこれを受け入れなければ、弘法ができません。円滑に弘法を行うため、大師は受け入れるしかなく、毎日数人の女性と同席されました。表面的には戒を犯したように見えますが、実際には菩薩戒を守ったのです。菩薩とは衆生と仏教を利益する者であり、根本目的が達成されれば、他のことは完璧にすることはできません。もちろん、このようなことは普通の人は学ぶことができません。学べば戒を犯すことになります。修行の功力が足りず、心行が十分に清浄ではないからです。

戒を犯すか否かは心にあり、戒を犯す心がなく、心を動かし念いを起こしていなければ、戒を犯したとは見なされず、どうして戒体を失うことができましょうか。戒を犯さないためには、必ず初禅定を得て、我見を断って小乗の三果となり、大乗の果位は初地に至らなければなりません。そうすれば根本煩悩が断除され、悪心・不善心・染汚心がなくなり、戒行を犯すことはありません。これ以外の状態では、戒を犯すのは避けられません。

優波離尊者は小乗の律師であり、よく比丘や比丘尼が戒を犯したと判定しました。しかし維摩詰居士や仏様から見ると、ある者は全く戒を犯していませんでした。仏様は比丘・比丘尼のその時の心行がどうであったか、生心动念があったかどうかを観察されました。もし生心动念がなければ、大乗から見れば戒を犯したことにはなりません。

戒を犯した比丘や比丘尼に対して、小乗の戒師は僧団から追放します。しかし仏様は、表面的には戒を犯しているように見えても実際には犯していない弟子に対して非常に寛容でした。例えば、ある比丘尼が強姦されて妊娠した場合、小乗では根本戒を犯したことになり、僧団から追放されるべきです。しかし仏様は比丘尼が戒を犯していないと認定し、王宮で子供を産むことも許されました。したがって、人が戒を犯したかどうかは、大智慧をもって判定し、時には神通によって現量で観察して判断しなければならず、当時の発心と用心を観察し、表面的な行為を見てはなりません。

現代の衆生の智慧は非常に限られており、人や事柄の判断は感情や浅薄な認識に基づいており、善悪是非を全く区別できず、善知識と悪知識を区別できず、人の発心や用心、物事の出発点や根本目的を観察せず、盲目的に排斥したり崇拝したりし、善を悪と見なし、悪を善と見なし、是非を転倒させており、教化することは非常に困難です。


——生如法師の開示
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