衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年10月24日    金曜日     第1開示 合計4506開示

我執があることによって生じる様々な妄語・煩悩・業

末法の世においては、妄語罪の中でも、大妄語罪を犯す者が多いだけでなく、中妄語や小妄語を犯す者も非常に多い。なぜ妄語罪を犯すのか?これらの妄語は、結局のところ、自らの能力を人に見せつけ、自分が優れていて人より勝っていることを示し、他人の注目を集め、羨望や崇拝を引き起こし、それによってさまざまな世俗的な利益を得て、自らの欲望を満たすためである。あらゆる煩悩は心の中に自我があることから生じる。自我がなければ、煩悩などなく、大中小の妄語などあろうはずがない。したがって、さまざまな煩悩の中から、自我への執着(我見)の深さや、各人の修持の程度が明らかになる。

ある者は、個人的に何の修持もなく、我見を断つ功徳がないため、修行は煩悩と無関係だと吹聴し、証果して我見を断った後はどんな煩悩があっても正常だとか、明心見性した後はどんな煩悩があっても正常だとか、煩悩は事相(現象)上の問題で法義とは無関係であり、法義さえ正しければ事相はどうでもいいなどと妄言を吐く。このような邪見で衆生を悪く染め、教え導くことは、結果が極めて深刻で、誰も実修実証しようとしなくなり、偽物が飛び交うことになる。正しい法義をもって如理に染め修め、如実に修行すれば、必ず煩悩を降伏・断除し、解脱へと向かうことができ、煩悩が継続・増大することはない。法義が間違っていたり、指導の方向性が誤っていたりするからこそ、衆生は煩悩を降伏・断除できず、かえって煩悩を増大させてしまうのである。

煩悩の軽減と滅除は正しい修行の結果である。結果が正しくなければ、その者が修行をよくしておらず、修法の指導方向に誤りがあることを示している。ある団体では、仏教を学んだ結果、貪・瞋・痴が普遍的に増大している。この結果は、学んでいる法の指導方向が間違っており、逆方向に向かっていることを示しており、解脱しないばかりか、多くの執着と束縛を増やしている。これは、自らが学んでいる法と、従っている人物を再検討する必要があり、もし間違った兆候を見つけたならば、速やかに離脱・修正し、後世に深淵に堕ちて自ら抜け出せなくなることを避けるべきである。

ある団体は、一貫して小乗や阿羅漢を蔑視し、三十七道品の基礎修行を全く重視せず、禅定を修めることもなく、観行(観察修行)も理解せず、ましてや我見の断ち方など全く知らないにもかかわらず、ある種の授業を一時間聴講した後、全員が初果を得て、人々が皆我見を断ったことになり、偽りの果位が飛び交い、偽りの聖人が至る所を歩き回る。その後、大革命運動を起こし、仏教界を烏煙瘴気に陥れ、至る所で安寧が失われた。張本人はこれらの偽りの果位のリストを仏前に供え、公然と世尊を欺いたが、実質的には信者を騙したのである。世尊が騙されるはずがあろうか?このような団体がさらに数年存続すれば、仏教は取り返しのつかないほど破壊され、堕落していたであろう。幸いなことに、娑婆世界にはまだ仏陀が坐しておられ、護法神が護持しておられたため、乾坤をタイムリーに救い、仏教を救うことができたのである。

無我こそが修行の後の功(功績)であり、無煩悩こそが修行の後の徳(徳性)である。無我で心が空(くう)であってこそ徳を具えることができる。煩悩があれば徳はなく、徳がなければすなわち徳が欠けており、欠けた徳は補わねばならず、徳を補うには無我の法、心空の法を修行する必要がある。功徳のある人は大きな煩悩の業を作らず、悪業を作らず、衆生を損なわず、仏教の土台を掘り崩すことはしない。しかし、福はあっても必ずしも徳があるとは限らない。福はあっても徳がなければ、機会があれば阿修羅のように、波旬(魔王)のように大きな悪業を作ってしまう。


——生如法師の開示
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種種の大妄語の奇怪な相

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