末法時期の妄語罪においては、大妄語罪を犯す者が多いだけでなく、中妄語や小妄語を犯す者も相当数にのぼります。なぜ妄語罪を犯すのでしょうか。これらの妄語は、いずれも自分の能力を人に誇示し、自分が優れ人に勝っていることを示して、他人の注目を引き、人々に羨望と崇拝をさせ、さらにはそこからさまざまな世俗法上の利益を得て、自分のさまざまな欲望を満たそうとするものにほかなりません。一切の煩悩は、すべて心の中に「我」があることから生じます。もし我がなければ、どこに煩悩があろうでしょうか。どこに大中小の妄語があろうでしょうか。したがって、さまざまな煩悩の中から、我見の深浅の程度や、各自の修持の程度を知ることができるのです。
ある人々は、自分に何の修持もなく、断我見の功徳もないにもかかわらず、修行は煩悩と無関係だと吹聴し、証果して断我見した後に何らかの煩悩があっても正常であり、明心見性した後に何らかの煩悩があってもやはり正常だとでたらめを言い、さらには煩悩は事相上のことであり法義には無関係で、法義が正しければ事相はどうでもいいとまで言います。このような邪見で衆生を悪く薫習させ、教導すれば、その結果はきわめて深刻で、実修実証しようとする者がいなくなり、偽物が氾濫することになります。正しい法義によって如理に薫修し、如実に修行すれば、必ず煩悩を降伏し断除して解脱に趣向することができ、煩悩を継続させたり加重させたりすることはありません。法義が誤り、指導の方向が誤ってこそ、衆生は煩悩を降伏し断除できなくなり、さらには煩悩を加重させてしまうのです。
煩悩の軽減と滅除は正しい修行の結果です。結果が正しくないということは、その人の修行が成されておらず、修法の指導の方向に誤りがあることを示しています。ある団体では、学仏の結果として貪瞋癡が普遍的に加重されました。この結果は、学んだ法の指導の方向が誤っており、道に背いて進んでいることを示しています。解脱しないどころか、多くの執着と束縛を増やしてしまったのです。これは、自分の学んできた法と、それに付き従ってきた人を改めて見直す必要があります。もし兆候がおかしいと気づいたら、できるだけ早く離脱して是正し、後世に深淵に堕ちて自ら抜け出せなくなることを避けるべきです。
ある団体は、昔から小乗と阿羅漢を蔑視し、三十七道品の基礎修行をまったく重視せず、禅定をまったく修めず、観行を理解せず、ましてやどうやって断我見するかなど知らないにもかかわらず、ある種の講義を一時間聞いた後には、一人残らず初果を得て、誰もが断我見したことになり、偽の果が氾濫し、偽の聖者がそこら中を歩き回ることになりました。その後は大革命運動を起こし、仏教を烏煙瘴気にして、どこも安寧を得られない状態にしました。元凶である者は、この偽の果の名簿を仏前に供え、公然と世尊を欺きました。実のところ信衆を欺いているのですが、世尊が欺かれるはずがあるでしょうか。このような団体がさらに数年存続すれば、仏教は破壊され敗壊して手の施しようがなくなるでしょう。幸いにも、娑婆世界には佛陀が鎮座しておられ、護法神が護持しておられ、時を得て乾坤を救い、仏教を救ったのです。
無我こそが修行の後の「功」であり、煩悩なきことこそが修行の後の「徳」です。無我で心空であってこそ徳を具え、煩悩があれば徳はなく、徳がなければすなわち徳を欠いており、徳を欠いたなら徳を補わねばならず、徳を補うには無我の法、心空の法を修行する必要があります。功徳のある人は、大きな煩悩業を造作せず、悪業を造作せず、衆生を損なわず、仏教の足場を崩しません。一方、福があっても必ずしも徳があるとは限りません。福があって徳がなければ、機会があれば大きな悪業を造ります。阿修羅のごとく、波旬のごとくです。
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