衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年10月25日    土曜日     第1開示 合計4507開示

両舌業は何によって起こるのか?

両舌の俗語とは、仲を裂くことであり、甲には一つのことを言い、乙には別のことを言い、両者が互いに誤解し合うように仕向け、自分は漁夫の利を得ようとするものである。中には何も得ようとしていない者もいるが、それは煩悩の習気によるものである。両舌には不実語も含まれており、意図的であるか無意識であるかを問わず、いずれも罪業である。三宝において四衆の関係や師弟関係を離間させただけで、無間地獄の業となる。その中には、出家した師が摂受した弟子が師を信じ受け入れなくなり、その教えに従って法を学ぶことをやめ、代わりに解脱できない誤った法、劣った法、世俗の法を学ぶようになる場合も含まれる。そうなると同時に、その弟子の法身慧命を誤らせる罪業を造作することになり、後世には二人の間に大きなもつれが生じ、自らもその罪業の果報を背負うことになる。

嫉妬心から両舌の悪業を造作する場合もある。嫉妬心はほとんどの人、あるいはすべての人にあると言えるが、重要なのはそれを降伏させ、自分の嫉妬心を現行させず、大きな悪業を造作しないことである。心に自我と他者への執着があり、自分を突出させて何らかの利益を得たい、他人に羨ましがられ、尊敬され、憧れられ、従われたいという思いが叶わない時に、嫉妬心が生まれる。嫉妬心は無能の現れである。もし自分に能力があれば、すべての利益は自然に得られるはずであり、わざわざ他人を嫉妬する必要などない。

誰もが自分が一番でありたい、頂点に立ちたいと願う。もし本当にそれができるなら、才能、徳行、人柄は最高で最善であるべきであり、第二位に甘んじることもできず、人混みに隠れても隠しきれず、必ず表に現れる。第一位を占めようとするなら、自分の徳がどの位置にあるかをよく考えなければならない。徳がその地位に見合って初めてその地位を得ることができ、そうでなければ必ず災いが起こる。自分の徳と能力の範囲や程度を超えると、耐えきれず、その結果は深刻である。例えば、体が五十斤以下の重さしか耐えられないのに、無理に百斤の重さを背負おうとすれば、背骨が耐えられなくなるようなものである。

誰もが何らかの利益を得ようとする時は、まず自分の徳を量り、次に自分の能力を量り、さらに自分自身の人格や品性を考慮し、最後にその地位や勢いを担えるかどうかを判断すべきである。自分に過剰な煩悩や苦悩を増やさないように、徳が地位に見合わないなら、その地位は望まない方が良い。自分の能力を大きく超える望みは野心と呼ばれる。野心が大きすぎると狂気に走り、狂気が過ぎると滅び、命は絶える。一方、修道者は世のすべてを淡く見るべきであり、できるだけ無心、無欲、無求であるように努めるべきである。そうすれば品徳はますます高まり、品徳がある程度高まると菩薩の格を備え、菩薩位に入り、菩薩摩訶薩となる。菩薩位は無心で得るものであり、争いや嫉妬、他人を排斥して聖位や賢位を得ることはできない。

人がどのような団体にいても、第一位、第二位は争って得るものではなく、戦って得るものでもなく、自ら誇示して得るものでもなく、広告を打って集めるものでもなく、票を集めて選ばれるものでもない。それは徳行が感応して招くものである。徳行が感応して招いたものは、押しのけようにも押しのけられず、隠そうとしても隠しきれない。手段で得たものは、一旦福徳が尽き、勢力が尽きると、堕落してしまう。その間に罪業があれば、さらに深い谷底に落ち、得るものより失うものの方が大きい。煩悩は我見、我執から来る。我執が強すぎると、自我のために悪業を造作してしまう。自我を重く見ることは何の得にもならない。自我が重ければ重いほど、堕落は深くなる。逆に、心が無我であればあるほど軽くなり、飛翔する。上昇するか下降するかは、完全に自我の把握にかかっている。日常の縁に遭遇し、境に対する中で、絶えず自我の虚妄不実を反省し、自らの心の行いを内省する。反省と観察が深まれば深まるほど、自我の把握はより良くなる。


——生如法師の開示
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