問:不可悔罪とは、もし人が不可悔罪を犯した場合、懺悔の方法では罪業を消除できず、業報を受けて初めて罪業が消除できるということを意味するのでしょうか。しかし、この人が念仏の法門によって極楽世界への往生に成功した場合、もし極楽世界で修行し続け、一生補処に至るまで修めたなら、業報を受ける機会はなくなってしまうのではないでしょうか。このような場合、不可悔罪の業種は枯れてしまうのでしょうか。
答:人が不可悔罪を犯した後は、心の遮障が非常に大きくなり、修行への抵抗は並大抵のものではありません。そのような人が念仏して極楽世界に往生でき、しかも極楽世界で等覚・妙覚の菩薩の果位まで修めるとするなら、これらの説はすべて仮定にすぎず、その可能性は極めて小さく、そのような事実が存在する証拠はありません。
不可悔罪と呼ばれるからには、罪業が非常に大きく深刻で、懺悔をもってしても消除できないほどのものだということです。ならば、この罪業は修道に対して大きな遮障となり、修行を障害し、当然ながら念仏と往生をも障害します。最も大きな障害となるのは禅定と智慧の生起であり、断我見を障害し、明心見性を障害します。もちろん、三宝を誹謗する罪や父を殺し母を殺す罪などの五逆罪を犯したのでなければ、極楽世界への往生にはまだその可能性はあります。
極楽世界に往生したからといって、いわゆる一生補処とは、極楽世界に行ったきり二度と出てこないという意味ではありません。修行はそのようなやり方ではありません。人が大きな成就を得ようとするなら、一尊の仏にのみ従って修行するのではなく、十方の諸仏菩薩と縁を結び、十方の諸仏菩薩に従って修行するものです。さらに、十方世界の衆生とも縁を結び、大願を発して衆生を度すことに努め、最大最多の福德を積むことに努め、絶えず道業を増長していかなければなりません。もし極楽世界にずっといたなら、どのようにして衆生を度すのでしょうか。
大菩薩の成就には、世間・出世間のどんな経験もすべて必要であり、どんな国土にも行かなければならず、どんな縁も結ばなければならず、どんな衆生も度さなければならず、どんな苦難も経験しなければならず、どんな富貴も享受しなければなりません。あらゆる順逆の境界による鍛錬を経てこそ、あらゆる面において完璧な菩薩を作り上げることができるのです。大菩薩の経験はどれほど豊かでなければならず、徳能はどれほど広大でなければならないことでしょう。何もかも見聞きし、どんな智慧も具足し、どんな境界にも対応できる。千錘百錬してこそ鋼となれるのです。王を務めたこともあり、転輪聖王を務めたこともあり、天主を務めたこともあり、鬼王を務めたこともあり、悪魔をも度したことがある。順逆いずれの境界も道業の障害とはなり得ません。このようにしてこそ菩薩の品格は完全で完璧なものとなり、徳行も一流と称せられ、すべての衆生の導首と模範となり、大衆を率いて絶えず仏道へと趣向させることができるのです。
衆生が仏法を学び修行することがなぜこれほど困難なのでしょうか。それは業障の遮障によるものではないでしょうか。どんな業障か。あらゆる業障のうち、その多くはかつて犯した不可悔罪です。衆生に不可悔罪という重大な業障の遮りがなければ、明心見性は非常に容易なものとなり、その後の一関一関も、ほとんど関と呼べるようなものではなく、足を上げれば乗り越えられるものとなります。成仏がそんなに困難であるはずがあるでしょうか。しかし事実は明らかにそうではありません。それゆえ、明心見性を通じて実相の智慧をもって懺悔するというようなことは、あるにはありますが、大多数の人にとっては思い描くことすらできません。仏在世の時代でさえ、ごく一部の人だけが実相懺悔を修得できたのです。現在およびその後の時代においては、このようなことは極めて起こりにくくなっています。衆生は仏在世の時代からますます遠ざかり、根器はますます期待はずれとなり、福德と智慧はますます劣っているのですから、どうして実相懺悔を成し遂げ、一足飛びに真の菩薩の列に加わることができるでしょうか。
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