衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年10月20日    月曜日     第1開示 合計4503開示

犯したゆるされない罪の結果とは?

問:不可悔罪とは、もしある人が不可悔罪を犯した場合、懺悔の方法では罪業を消し去ることができず、業報を受けた後に初めて罪業が消えるということを意味するのでしょうか?しかし、この人が念仏の法門によって極楽往生に成功し、もしずっと極楽世界で修行を続け、一生補処に至るまで修めた場合、彼は業報を受ける機会がなくなるのではないでしょうか。このような状況において、不可悔罪の業種は枯れてしまうのでしょうか?

答:ある人が不可悔罪を犯した後は、心の障りが非常に大きくなり、修行の妨げは並大抵ではありません。そのような人が念仏して極楽往生し、かつ極楽世界でずっと等覚妙覚菩薩の果位まで修めることができるという説は、あくまで仮定であり、可能性は極めて低く、そのような事例が存在する証拠はありません。

不可悔罪と呼ばれる以上、その罪業は非常に大きく深刻であり、懺悔さえも消し去ることができないほど重大であることを示しています。したがって、この罪業は修道にとって大きな障りとなり、修行を妨げ、当然ながら念仏や往生をも妨げます。最も主なのは、禅定と智慧の生起を妨げ、我見を断つことを妨げ、明心見性を妨げることです。ただし、三宝誹謗罪や殺父殺母罪などの五逆罪を犯していない場合、極楽往生の可能性は依然としてあります。

極楽往生し、いわゆる一生補処となることは、極楽世界に行ったら二度と出て行かないという意味ではありません。修行はそのように修めるものではないのです。人が大いなる成就を得ようとするならば、一尊の仏にだけ従って修行するのではなく、十方の諸仏菩薩全てと縁を結び、十方の諸仏菩薩に従って修行する必要があります。さらに十方世界の衆生とも縁を結び、大願を発して懸命に衆生を度し、最大限の福徳を積み重ね、絶えず道業を成長させなければなりません。もしずっと極楽世界の中にいるならば、どうやって衆生を度すのでしょうか?

大菩薩の成就とは、世間・出世間におけるあらゆる経験を持ち、あらゆる国土に行き、あらゆる縁を結び、あらゆる衆生を度し、あらゆる苦難を経験し、あらゆる富貴も享受し、一切の順逆境の鍛錬を経て、初めてあらゆる面で完璧な菩薩、つまり大菩薩が形成されるのです。大菩薩の見識はどれほど豊かであり、徳と能力はどれほど広大であることでしょう。あらゆるものを見識し、あらゆる智慧を具え、あらゆる境界に対応でき、千錬百磨を経て初めて鋼となるのです。国王も経験し、転輪聖王も経験し、天主も経験し、鬼王も経験し、悪魔を度化し、順境逆境のいずれも道業の妨げとはなりません。こうして初めて菩薩の品格は完璧となり、その行いと徳は一流と称され、一切衆生の導き手であり模範となり、大衆を率いて絶えず仏道へと向かわせることができるのです。

衆生が学仏修行することがなぜこれほど困難なのでしょうか?それは業障の遮りに他なりません。何の業障か?一切の業障、その多くはかつて犯した不可悔罪です。衆生に不可悔罪という重大な業障の遮りがなければ、明心見性は非常に容易であり、その後も関門ごとに、ほとんど関門とは呼べず、足を上げれば乗り越えられるほどで、成仏がこれほど困難であるはずがありません。しかし、現実は明らかにそうではないのです。したがって、明心見性を通じ、実相智慧による懺悔を行うということは、存在はしますが、大多数の人にとっては到底考えられないことです。仏在世の時代でさえ、実相懺悔を修められるのはごく一部の者に限られており、現代およびその後の時代においては、このようなことは極めて起こりにくいのです。なぜなら、衆生は仏在世からますます遠ざかり、根機はますます満足のいくものではなくなり、福徳と智慧はますます衰えているのですから、どうして実相懺悔を成し遂げ、一歩で真の菩薩の列に加わることができるでしょうか?


——生如法師の開示
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