衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年10月19日    日曜日     第1開示 合計4502開示

戒律の遵守の段階

仏典はよく煩悩の過患を説き、因果もまた煩悩の障りを示すが、それでもなお戒律を公然と軽視し、自らの貪瞋痴の煩悩に従うよう人々を勧め、公然と「戒律はすべて表相であり、有相戒であるから気にする必要はなく、戒相に執着する必要もない。無相戒を直接保つべきだ」と言う者がいる。しかし現実には有相戒さえ保てないのに、より精微で深遠な無相戒をどうして保てようか。有相の身さえ制御できず、有相の口も制御できないならば、無相の心をどうやって制御できようか。身業と言業はすべて心の行いから来るものであり、心と言葉が一致しない時はまだごまかしや偽りができるが、もし偽りさえできなくなったなら、その無相の心はどれほど躁動し顛倒していることか、どうやって降伏できようか。

煩悩を降伏させるには次第があり、すべて粗いものから細かいものへと進む。最も外側の粗い皮さえ洗い清められないのに、どうして内面の深層の汚れを洗い流せようか。もし簡単なことさえうまくできないなら、どうして複雑なことができようか。だからこそ、有相戒を捨てるという説や行為はほとんど魔所行に等しく、有相戒を否定する方式で直接に戒律を否定し、衆生を深い煩悩の中に陥れて自拔できなくさせ、ついには三悪道に堕ちて生死を輪廻させるのである。衆生が欺かれるのは、是非を弁別する能力が乏しく、論理的思考力が弱いからである。その原因を究めれば、やはり福徳が余りにも欠けており、仏法を学んだ経験が浅すぎるからである。つねに小賢しいことを考え、何もかも出したくないので、邪見や扇動を容易に信じてしまうのである。


——生如法師の開示
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