衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年10月16日    木曜日     第1開示 合計4499開示

意業の淫が身業・口業の淫を引き出す

仏が優婆塞は欲想と欲覚を起こすべきではないと説かれたのは、どういう意味でしょうか。これは身口意の三業における意業を指し、心の思念・心の思い・心の覚受であり、意淫とも呼ばれます。貪欲を降伏できない者が内心に頻繁に貪欲の妄想・念頭・覚受を生じ、意淫に耽り非現実的な空想にふけるのです。明確な意淫の対象を持つ者もおり、脳裏に対象者の影像や淫欲の情景が浮かび抑制できず、これで淫戒を犯します。大胆な者は意淫を全く隠さず公然と口にし、「前世に多数の妃がおり、今世その一部が此処に生まれ因縁現前により再会した。彼女たちは誰々と誰々である」と大衆に告げ、後ろには大量の注釈が続き、聞くに堪えない有様です。これは意欲と口欲であり、身行は未だ現れていません。

欲を断たない限り心念は止まず、意がある以上、縁が具足すれば必ず身欲行と口欲行が現れます。身口行は意行に導かれ牽引されて現れるため、淫を断つとは意淫を断つことにあり、修行とは心を修めることです。身口行が現れた時、犯戒の相が現前し、これが有相戒です。身口行が現れる前の意業は無相であり、無相戒を犯すことになります。無相の意業を守れなければ、有相の身口行も守れません。

有相戒を守れず身口が制御できず頻繁に破戒する者の中には、言い訳を設けて「有相戒は初心者が守るもので、根器ある久修の菩薩は有相戒を捨て無相の心地戒を持つべきだ」と弁明する者がいます。この考え方と言い分はなんと倒錯していることか。初歩の有相戒すら守れない者が、どうして深遠な無相戒を守れようか。身口を制御するのと、心地を制御し降伏させるのと、どちらが容易でしょうか。

心念が降伏できない時、身口は装うことができるではありませんか。清浄を装い修行あるふりをするのも、結局は初歩的な修行法ではないでしょうか。装うことすらできないなら、内心の意念はなおさら制御のしようがありません。中には公然と煩悩への随順を提唱する者さえおり、つまり「淫欲心が生じた時は制御せず直接淫行に及べ。有修行を装うな。仏法を学ぶほどに虚偽が増えてはならない」と言うのです。この者は自心を降伏できず直接抵抗を放棄し自暴自棄となったばかりか、随学する者全てに戒律や仏の諄い教えを顧みず自棄になるよう呼びかけています。このような行為の結果はどうなるのか。如来蔵の存在を知っているからといって、如来蔵が面目に免じて見逃してくれるとでもいうのでしょうか。実に愚かである。

一人の修行の程度、真の修行の有無は、言行に完全に表れます。眼ある者を騙すことはできず、騙されるのは初歩的な未熟者だけです。彼らは愚かにも騙されても騙されたがり、騙されないと居心地が悪くどうすれば良いか分かりません。しかし天下の者が皆愚かというわけではなく、必ず覚醒した者、警戒心ある者がいて、あらゆる者の騙しの術や偽装を見抜き、あらゆる者の人間性を見破るのです。

修行とは無明を破り煩悩を断つ過程であり、身口意の行いは無明と煩悩の体現です。無明あれば煩悩あり、煩悩あれば無明あり、智慧なし。無明無智慧あれば修行なく、徳行なく、凡夫であり、生死輪廻があるのです。


——生如法師の開示
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