問:楞厳経では阿難が初果を得たとされているが、摩登伽女に誘惑され、危うく戒を犯すところであった。もし楞厳呪に救われなければ、破戒によって三悪道に堕ちる可能性はあったか?
答:阿難は摩登伽の母が外道の邪呪を用いて淫女の屋敷に誘い込まれたのであり、自ら進んで入ったわけではない。阿難の初果の禅定力は明らかに外道の強力な邪呪に抵抗できるものではなく、邪呪は阿難を束縛する作用を持ち、抵抗力を失わせた。しかし阿難は決して自発的にいかなる戒律も犯すことはないため、三悪道に堕ちることはない。あたかも禅定力が不足している者がアルコールの迷わす力に抵抗できず、アルコールが心に入れば昏沈して正気を失うようなものである。このアルコールは自らの意思で飲んだものではなく、他人によって無理に飲まされたり、策略によって飲まされたりした場合、飲酒戒を犯したとはみなされない。
阿難の状況は外道によって強制的に呪法を施されたものであり、功力が不足していたため邪呪の力に抵抗できなかったのである。阿難が自ら進んで邪呪を受け入れたわけではない。邪呪が一旦心に入れば、阿難にもはや正気を保つ術はなかった。人が幻覚剤の作用を受ければ、自覚なくなるものであり、これは個人の意思ではなく、自ら進んで自我を迷わせようとしたわけではない。したがって、心に煩悩を持って自発的に破戒した行為には当たらず、三悪道に堕ちることはない。もし阿難が迷わされている最中に貪欲の心を起こさなければ、いかなる状況であれ阿難に破戒行為はなかったことになる。完全に心を動かさず貪欲を持たない状態は、三果以上に修行し貪欲を断ち切らなければならず、一般の人は意識による制御を必要とする。しかし意識は外力によって制御されやすいため、意識のみを修行し広く学び多く聞くだけでは、道力は健全に育たず、結果として阿難のような状態に陥るのである。
もし極めて強力な外力が作用すれば、修行者の道力が不足している状況下では、影響を受けないことは難しく、五陰のうちの色陰が尽きていなければ色陰の影響を受け、受陰が尽きていなければ受陰の影響を受け、想陰が尽きていなければ想陰の影響を受ける。これは避けようのないことである。
いつになれば五陰の影響を受けず、色陰尽・受陰尽・想陰尽を得られるのか。最低でも四禅定を修得する段階でなければならず、四禅定の中において初めて色陰と受陰・想陰を断じ尽くすことができる。そうでなければ誰もが五陰の影響を受けることになる。身体を持つこと自体がこの大きな患いであり、身体がなければ患いは存在しない。だからこそ道を修め、禅定を修め、意根にまで至る修行が必要であり、五受陰を断ち切り心を解脱させることを求めるのである。
小乗は人が戒を犯したか破戒したかを判断する際、外見上の行為のみを見て判断する。行為が五戒・比丘戒・比丘尼戒に適合していれば、破戒していないとする。一方、大乗が菩薩が戒を犯したか破戒したかを判断する主な基準は、菩薩の心が戒を犯したかどうか、行為の中で心が動いたかどうかにある。もし心が動いていなければ清浄であるとされる。しかし一般の人は外見上の行為しか見ることができず、人の真の心の動きを見抜くことはできず、誤判の可能性は非常に大きい。もし人が表面上は善行を行い、表面上は他者を利しているように見えながら、その心の動きが全て私利私欲のためであり、その行為が偽装と仮の姿であり、心の目的と行為が一致していなければ、この人は善行を行っているのではなく、他者を利しているのではなく、己を利しているか、あるいは他者を害しているのである。このように行為を仮の姿とした欺瞞は、福をもたらさないばかりか、罪すらある。
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