仏は三界において最も慈悲深く、最も寛大で、最も尊い聖人であり、一切の衆生を寛容に受け入れ、いかなる衆生とも争わない。もし衆生が仏に属する物品を勝手に流用すれば、客観的に見て仏物を盗むことに等しく、最も重い罪を得る。これを仏物盗と定義し、それによって悪果悪報が生じるのは、仏が寛容であるかどうかという問題ではなく、因果律によって制約され決定されるものであり、仏が設定し決定するものではない。仏物や三宝の物を盗むことは、普通の衆生の物品を盗むよりも無数倍深刻であり、しかも徳行が高く慈悲深く寛大な人であるほど、その物品を盗んだ罪はより重い。したがって、犯罪後に物主が寛大であるからといって無罪で因果がないと思うことはできない。
窃盗罪の定罪は仏が定めるのではなく、護法神が定めるのでもなく、ましてや物主が定めるのでもない。因果律自らが定め、如来蔵が因果律を執り行う。比較的大きな因果については仏は干渉せず、小さな結果は窃盗者の懺悔の誠意と善根、および仏との縁によって決まる。仏は一部分の障りを除くことができ、護法神は一時的に遮ることはできるが、残りは因果によって償われる。懺悔は果報を軽減する最も効果的な方法であり、窃盗の心を滅し、根本的に罪業の源を除いて初めて、罪業の一部あるいは全部が消滅するのである。
ここから知ることができるのは、有情衆生が仏に供える物品は仏に属し、仏が物品の所有者であるということだ。供えた者であっても勝手に流用してはならず、そうすれば仏物盗となる。供えた後の物品を使用したい場合は、供える際に仏に告げる必要がある:「私は仏菩薩にこれらの物品を供養します。仏陀様が仏事を終え、精髄の部分を受用し終わった後の残りの粗重な部分は私が回収して自用とします。仏陀様がお使いにならない部分は私が使用します」と。このように事前に了解を得ておけば、香が燃え尽きた時点で供物を下げることができる。あるいは、他の物品で仏が使用した物品と交換することもできる。
仏が物品の精髄部分を受用されるのであれば、我々は何が精髄部分であるかを知るべきである。この部分については注意を払い、決して手を触れずに仏陀の受用に残さなければならず、そうしなければ仏陀を欺くことになる。なぜなら仏は本来、香りを嗅ぎ味わわれるのであり、あなたが供物の美味と香気を先に嗅いで味わってしまえば、仏が必要とする精髄部分はなくなってしまうか、あるいはそれほど多くは残らなくなる。仏に先立って食することは仏に対する不敬であり、福を得ることはできない。供物を仏が用いられれば衆生は福を得、仏が用いられなくても衆生は依然として福を得る。なぜなら供仏の誠心が交換となって福を得るからである。ただし、得られる福の差は非常に大きい。
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