不法所得は即ち盗みである。「不法」という二文字が極めて重要であり、君子は何を愛するにも正道によって得るべきで、必ず正しい道筋から公然と得るべきであり、邪な道から得てはならず、不法に取得してはならない。故に仏陀は我見を断つ前に八正道を修めるべきだと説かれ、八正道なくしては我見を断つことはできない。
三宝の物品を販売すること、脱税、違法経営、国家の法律法規に違反することは、全て盗みの行為である。真の菩薩、真の修行者は国家の法律法規に違反せず、一定の程度において国家や地域の規制制度に順応し、これに背くことはない。脱税行為は国家と国民全体の利益を侵害し、国家と国民全体に対する負債を生み、将来返済するのは国家と国民全体への負債であり、元利合わせて額が膨大で、結果は極めて深刻である。
寺院は公共の場所に属するが、一般の在家信者が出入りできるとはいえ、時には寺院は清浄を必要とし信者を受け入れない場合がある。もし明らかに立ち入り禁止と知りながら敢えて寺院に押しかけて妨げるなら、これも盗みに当たり、出家者の時間と労力を盗み、出家者の修行と諸々の用務に影響を与える。寺院が被った損失の大きさこそが、在家信者が盗んだ分量に等しい。
仏に供養する物品について、内心で仏に供養すると既に決め、一時的に傍らに置き、供養すべき時に初めて供える場合。内心で確定するとは、意根が既に決定したことであり、物品の占有権を放棄したことに等しい。すると物品は実際に供養されたか否かに関わらず仏に属するものであり、何らかの理由で取り戻して自用したなら、仏の物品を横領したことになる。人に物品を贈ると約束し、相手が承諾した場合、双方の意根で引き渡しが成立し、この時点で物品が誰の手にあろうと所有権は相手に移る。約束の期限までに物品を渡さず、かつ渡さないと決めたなら、相手の物品を盗んだことに当たる。
寺院で食事をする際、寺院が無償と規定していない場合、ただで食事して代金を支払わないことは寺院の食糧及び斎堂担当者の時間と労働力を盗むことに等しい。頻繁に寺院を訪れ出家者とお茶を飲みながら、決して茶葉を持参せず相応の物品で返礼しない行為は、出家者が自発的に喜んで応じている場合には単なる負債に過ぎないが、出家者が本心から望んでいない場合は出家者の茶葉と時間を盗む行為に当たる。出家者の時間を勝手に占有し、その修行や用務に影響を与える行為の結果は極めて良くない。寺院や出家者に対する盗みの報いは、在家者に対する盗みよりも何倍も大きい。
寺院が意図的に特定の場所に置いた経典などの結縁品は、全て無料で縁を結ぶために提供されているものであり、自由に受け取ってよく、寺院の管理者に断る必要はない。特定の物品は担当者が管理しており、使用したい場合は担当者の同意を得る必要がある。担当者でない者が同意しても無効であり、無断で使用すれば盗みに当たる。また同意を与えた者に相応の権限があるかどうかも確認すべきであり、適当な人に許可を得れば良いわけではない。もし同意を与えた者が誤った処理をすれば、その者も責任を負い因果の法則に縛られ、場合によっては罪に問われることさえある。
各人は家庭、職場、寺院、その他全ての公共の場において、それぞれの物品の所有者が誰であるかを明確にすべきであり、所有者の権利を侵害してはならない。物品を使用する際は必ず所有者に確認を求めること。自身の家族である父母、子供、配偶者の所有権さえも侵害・冒涜してはならない。これが人としての教養と品性であり、清らかに生きる者は必ず清らかな報いを得る。
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