衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年09月28日    日曜日     第1開示 合計4482開示

善意の盗みは善報がある

盗みは、ほとんど全ての人が犯すものであり、与えられていないものを取ることが盗みであることを一般の人は理解していません。私も犯しており、しかも故意にそうしています。以前から余った物を人にあげるのが好きで、布施の習慣があり、家族にも布施で福を積み、物惜しみの習気を捨ててほしいと思っていました。他人には干渉できず、母だけが何とか説得できる相手でしたが、彼女は少しけちで私の言うことを聞かず、使っていない物がたくさんあっても人にあげようとしません。仕方なく私は彼女が普段使わない物をこっそり持ち出して人に施し、そのたびに彼女は物が見つからないと言っては「私が盗んで人にやった」と言うのでした。実のところ、家族の物をこっそり持ち出す行為にも果報があり、将来の果報はどうなるのでしょうか?物を人に施せば千倍の福を得ると言いますが、この福は誰が得るのでしょうか?

もし私が福を得るのなら、千倍万倍どころではありません。しかし物は私のものではないのに、どうして私が福を得られるのでしょうか?布施という行為は私が行ったのですから、当然私が福を得ます。身分が違えば得る福の量も異なり、発心が違えば得る福の量も変わります。しかし物は母のものですから、彼女も福を得るべきですが、布施の心がなければ得られる福は限られており、しかも私が福を得たことで、私がいなければ彼女は福を得られません。私が将来福を得るとき、その一部を返還する必要があり、私は発心した分の福しか得られません。

肉親同士で互いに借りを作り、この縁によって来世もまた共にいます。借りを返すことになっても、結局は彼らを救う機会が得られるのですから良いことです。家族間の関係は元々ごちゃごちゃで、誰にも清算できません。この債務関係によって生々世々に絡み合い、善縁であれば楽しく、悪縁であれば苦しみます。あらゆる人々と善縁を結べば、未来世では苦しみなく楽しく過ごせるでしょう。


——生如法師の開示
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