増一阿含経第十六巻高幢品原文:阿羅漢の如く、形寿を尽くすまで斎戒法を壊さず、常に時を以て食し、少食にして足ることを知り、味に着かず。我今もまた是の如く、形寿を尽くすまで斎戒法を壊さず、常に時を以て食し、少食にして足ることを知り、味に着かず。今日より明日の暁に至るまで。
釈:阿羅漢のように、一生の寿命を尽くすまで斎戒を破らず、常に正午前に食事をし、少食で足ることを知り、飲食に貪らず、味覚の対象に執着しない。私も今からこのように、一生斎戒を破らず、常に食事すべき時に食事し、午後は食事せず、少食で足ることを知り、味覚の対象に執着せず、今日から明日の明け方まで守る。
これは一日一夜の八関斎戒であり、条件が整う者は七日七夜受持することも、毎日受持することもできる。その功徳は計り知れない。仏在世の阿羅漢及び全ての出家衆は一生を通じて日中一食、午後は食事せず、彼らは修行に専念し、世俗の用事がなく、坐禅の時間が多く、心が清浩であったため、日中一食は容易に維持できた。在家の仏教徒にも一部、午後不食を実践できる者がいた。末法の世において午後不食を守ることは幾分困難であり、退職して仕事のない在家居士でなければ守り続けるのは難しく、仕事を持つ者は非常に困難である。寺院の出家者でも、寺務が多く落ち着かず、禅定が少なく心が清浩でない場合、午後不食戒を守るのは容易ではない。仏がこの戒を制定されたのは、修行者の心を清浩にし、修道と入道を容易にするためである。もし多く食べれば、一つには貪着が増し、二つには胃が常に飲食の消化に忙しく、心は清浩ならず、修道や問題思考に専念できなくなる。特に夜に食事をすると、胃が消化に忙しく心は静まらず、禅定が生じず、静慮は成就しない。したがって少食は修行に有利である。
ある者たちは戒律で仏を縛り、仏に午後不食戒を守らせようとし、夜だけでなく午後も仏に供養しない。なぜこの者たちは諸仏菩薩にこのような扱いをするのか?凡夫衆生は仏菩薩の境界を理解せず、戒律の実質的な内包を理解しないため、仏菩薩を自分と同じ凡夫、それも人間の凡夫と見なし、仏菩薩も人類衆生と同じく午後不食戒を守るべきだと思い込むからである。
仏陀が当時この戒律を制定されたのは、修行者の心を清浩にし、飲食の干渉を受けずに持続的に修行し、継続的に精進させ、散乱や昏沈の状態が生じて修行に影響を与えないようにするためであった。しかしこの戒律は仏陀や諸大菩薩たちには適合せず、たとえ仏菩薩が人間界で人身をもって住世されても、この戒律の制限を受けるべきではない。なぜなら第一に仏陀は修行せず、第二に仏陀は無量の道行を持ち、飲食を化解変化させることができ、不食も可能なら無量に食することも可能で、いずれも身心に影響しないからである。だが仏陀は当時、人間界でも午後不食を実践された。これは衆生のために模範を示すためであり、仏が天人たちの前では午後不食戒律の制限を受けず、時と場所を問わず天人たちの様々な供養を受けられた。
諸仏菩薩が人間界にいない時、そのおられる仏国土では太陽光を昼夜の境界線とせず、かつ他の仏国土の一分が娑婆世界の人間の数日に相当するならば、人間の朝夕の時間は他の仏国土の時間にどう対応するのか?欲界の忉利天以上の天界には太陽がなく、自然の光明が現れ、太陽光を必要としない。したがって忉利天以上には闇がなく夜もなく、他の仏国土にも闇や夜はなく、仏の世界に至っては夜という概念はさらに存在しない。人間の午後不食戒は時空を変えれば全く意味をなさないため、仏に供養する際に人間界の昼夜などの時間を考慮する必要はない。
さらに言えば、諸仏菩薩は無量の智慧をもって食すか否か、どれだけ食するか、いつ食するかを選択される。凡夫の智慧でどうして諸仏菩薩の行いを憶測し制限できようか?したがって供仏に時間制限はなく、仏の境界には時間が存在せず、朝夕の区別もない。仏は衆生に福徳を積ませるために布施を受けるのであり、本来何も必要とされない。仮に必要であっても仏は自ら変化させ、瞬時に完成させる。仏には戒律による制限もなく、無量の智慧と徳能をもって、とっくに戒律で縛られる必要はない。人間界の衆生は、天人や神人、諸仏菩薩に人類の習性や習慣と同じであることを求めてはならない。
人間の思考は人間の生活範囲に制限され、人間の範囲を超えた衆生や仏菩薩の境界を理解できない。我々学仏者は、人間の狭隘な思想や境界、様々な習慣をできる限り突破しようと努めるべきである。人間は二本の足で歩くが、天人は空中を飛ぶ。我々は人間の歩行規則で飛行できる天人の行為を規範化すべきではなく、ましてや人間凡夫の規則で諸仏菩薩の心行を制限・規範化してはならない。人間は諸仏菩薩と比べれば乳飲み子の如く、諸仏菩薩の心行や境界を理解も想像もできず、そのため様々な誤解や不理解が生じる。我々は心量と視野をできる限り広げ、凡夫の狭隘で理にかなわず幼稚な思想をできる限り突破し、より高級な生命の思想境界と行為規範に近づくよう努めるべきである。
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