古代インドでは、女性と子供は夫や父親の私有財産とされ、男性は自由に妻や子を他人に贈与・売却できました。この慣習はお釈迦様でさえ破らなかったため、弟子たちも妻を自由に人に譲り渡して出家修行することを許されていました。当時は女性の地位が低く、現代の私たちから見れば不合理に思えますが、当時は女性たちが抵抗することもなく心から進んで耐え忍んでいました。一見不合理な事象が存在する背景には、必ず人知を超えた因果の法則が働いており、衆生には理解できなくとも仏様はご存じでした。そのため当時、女性の出家修行は認められなかったのです。これは仏様に慈悲心が欠けていたわけではなく、そのような慈悲が仏法の正法の時代を五百年短縮し、数多くの素質ある衆生を救う機会を失わせるからでした。これは仏教界の損失であり、衆生全体の損失だったのです。しかし結局、仏様もやむを得ず女性の出家修行を受け入れられました。慈悲と非慈悲、善と不善は、凡夫たる衆生の智慧では永遠に理解し得ず、衆生の見解はことごとく倒錯しているのです。 仏陀のなさることは、いかなる行為も慈悲そのものです。あらゆる方向から、あらゆる状況から、具体的な事情から、仏教全体の利益から考察しても、すべては慈悲に貫かれています。縁が異なれば結果も異なり、選択も変わります。ですから「この行為は慈悲だが、あの行為は慈悲ではない」と区別することはできません。仏陀の一切の行動は大智慧と大慈悲に基づいています。私も同様に、衆生に対応するか否かを問わず、すべては衆生のためであり、個人のためではありません。私の時間も精力も心力も、すべて衆生と仏教に捧げられたものであり、私個人のものではないのです。従って、あらゆる行動は大局から、仏教全体の利益から発想すべきです。 一部の者だけのために行動すれば、大多数の利益を損なうことになります。ゆえに、一部の者だけに心力を消耗させるわけにはいきません。仏教事業全体は、常に一部の衆生の利益よりも優先されます。智慧ある者は正しい判断で取捨選択し、利益を最大化するために心力と精力を合理的に配分しなければなりません。娑婆世界には南瞻部洲だけが存在するのではありません。南瞻部洲は娑婆世界の三千大千世界の中の一小世界に過ぎず、娑婆世界全体には十万億もの星体が存在し、至る所に救済を必要とする衆生がいます。菩薩は十方世界の一切衆生に属する存在であり、一地域の衆生だけのものではありません。菩薩の心は非常に広大であるべきで、視野は全世界・全宇宙に向けられるべきです。ですから、この世に来るか否かを問わず、すべては仏教と衆生のためであり、慈悲の現れなのです。
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