垂天の翼が自らの口業を悔いた経験を語る:弟子が口業を造った後、気持ちが苛立ち落ち着かず、経を唱えても仏菩薩に懺悔を捧げても、大悲呪を誦しても、心が普段の清らかさを保てなかった。そこで弟子は坐禅で気持ちを落ち着かせようとしたが、一時間座っても変わらず、心中で三宝に繰り返し懺悔した。自分は阿難尊者が言った「親を失った貧しい子」のようだと感じ、この上なく悲しく苦しく、頭には風船を乗せているようで心臓も痛んだ。この時、師匠は禅坐しているかもしれず邪魔できないと思い、涙を拭いながら坐禅を続けた。
数分経つと、突然足の筋から後頭部まで生気が満ち、一瞬で全身に汗が吹き出し、眩暈と心痛が消えた。急いで携帯を掴んで師匠にメッセージを送った。ちょうど十一時十分だった。その後坐禅を続け十二時に就寝した。夢の中で弟子は風呂敷に包んだ荷物を背負い、家々を回って借金を返していた。私は言った「師匠、弟子がこんなに荷物を背負うのはとても辛いです。皆を呼び出して一緒に返しても良いでしょうか?」師匠は「いけない、一つずつ返さねばならない」とおっしゃった。今日は午前中ずっと考えていた:今どこの誰が風呂敷で荷物を包むだろうか?もしかして宿債を返しているのだろうか?夢の中で借金を返すと業が消えるのだろうか?
以上が弟子の懺悔の経緯である。弟子はこれまで懺悔をしたことがなく、悔い改めた後は心身が清らかになり、頭が冴え、以前感じた清らかさより一層進んだ。師匠、どうか弟子のためにご指導をお願いします。
質問への回答:不善なる口業を造った後、即座に自省し、口業の善悪・是非を知り、さらに速やかに懺悔できるのは、三十七道品中の四正勤の道を歩み始めた証である。四正勤を修め終えた後、悪は断たれ善が生じ、修行が思いのままになり、善根が成長し始める。これは学仏修行の基礎であり、この基礎がなければ修行はおろか、悟りを得るのは程遠い。これは心底からの誠実な懺悔であり、意根の真の悔い改めであって、意識が形式に流れた偽りの懺悔ではない。故に懺悔後は悪業が消滅する。坐中に気脈が湧き、全身に汗が吹き出し、病苦が消える。続く睡眠中、意根が宿債の償いを始め、過去世の借金を一つずつ返済する。懺悔による消業とはこの原理であり、借金を返す夢を見るのは、意根が夢によって自らの業障が消え、宿債の一部が返済されたことを示している。消業と債務返済がある程度に達すると、修行に障害がなくなり、禅定が生じ、智慧が増長し、修行が急速に進み、見道も早まる。
故に学仏修行の最初は、三世の業障を誠心誠意懺悔すべきである。業が消える時には必ず様々な予兆がある。煩悩が消える時も様々な予兆や示現があり、通常は夢中や定中に現れる。自らの身口意の行いが清浄でない者、悪業を造っても気づかず知らず、決して反省せず、自覚せず、懺悔しない者は、今後も悪業を繰り返す。明らかにこのような者は四正勤を修めておらず、悪を断ち善を修めていない。仏教界ではこうした者ほど証果や明心を自称し、修行が良い者は決して軽率に自らを高く評価せず、全て事実に基づき、智慧をもって理にかなった思考で判断する。
これらの修行過程が全くないのは、明らかに正修の段階に入っていない証である。どうして見道できようか?自ら常に修行が正修行の段階に入ったかどうか、現在のレベルや次元はどうかを点検すべきである。何の予兆もなく、煩悩や業障がまだ重いなら、証果や明心を自称し、聖人と思い込むのは止めるべきだ。どこが聖なるのか、見て取れるか?こうすればするほど自我が重く、我慢・高慢が増すのである。
見道前には修すべき法が多く、過程では様々な経験が必要である。どの過程を経験し、修行がどの程度に至ったかは、必ず予兆や示現があり、それらが全て証拠となる。何の経験もなく、口先だけであれこれ言うだけなら、誰も信じられない。最も重要なのは、如来蔵に一切の記録がなければ、誰が何と言おうと無意味だということだ。
もし聖人になりたいなら、本当に他に方法がなければ如来蔵に頼んで融通を利かせ、手加減して早く聖人の殊勝な境界や果報を現じてもらうしかない。もし如来蔵が厳正無私で公正に事を運ぶなら、仕方ない。あるがままの身分でいるほかない。仏が証明しても無意味である。
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