『楞厳経』において瑠璃光法王子はこう述べられた:無量劫の昔、無量声仏が世に出現され、菩薩たちにこう説かれた。仏と衆生の本覚は非常に微妙で精妙明らかであり、この妙明の本覚の真心から世界と衆生が派生した。世界及び衆生の身は、すべて虚妄の因縁が風の力のように転化して現れたものである。
私は仏陀の説法を聞いた後、十八界がどのように安立されているかを観察し、十八界が一世また一世とどのように流転して時間を形成するかを観察し、衆生の五蘊の身においてどのように空から有へと運転されていくかを観察し、衆生の心がどのように念想を生じるかを観察した。観察を終えて気づいたのは、界の動きであれ世の遷流であれ、身の動きであれ心の動きであれ、これらの動きには二相がなく、平等で差別がないということだった。ここまで観じたとき、私はたちまち、これら諸法の動性は来る所なく去る所もなく、十方の微塵のごとく多い衆生がすべて同じく虚妄であることを覚知した。三千大千世界の中の一つの世界にいるすべての衆生は、ちょうど一つの器の中に貯蔵された百匹の蚊がぶんぶんと騒ぐように、自心の中で鼓のように鼓動し、狂乱して喧騒しているのである。
上記の文章では、世界とは何か、そして世界がどのように出現するかが紹介されている。まず紹介されているのは「界」である。界とは諸法の差別と類別を指し、世間の一切の法は類別の違いによって十八種の法の差別界限に分けられる。それはすなわち六根、六塵、六識であり、つまり衆生の内身と外身であり、一切の法はその中に包括されている。衆生の内身と外身が絶えず生死流転を止めないことで、前世、今世、後世が形成され、こうして世界が成立する。ここからわかるように、世界とは衆生の五蘊十八界の生死流転の過程そのものであり、五蘊十八界こそが世界の主人である。主人が絶えず生死流転することを「世界」というのである。
世界の動転も五蘊身心の動転も、すべて虚妄の因縁が風力のように鼓動して現れた現象であり、その虚妄の因縁と風力はすべて衆生の本覚妙明心から現れたものである。したがって、衆生の世界は虚妄であり、世界は存在せず、衆生も存在せず、虚空すら存在しない。世界は何ものでもなく、衆生も何ものでもなく、ただ本覚がぽつんと存在しているようでありながら、実際には世間法においても何ものでもないのである。
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