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日常法話

2025年06月17日    火曜日     第1開示 合計4407開示

優婆塞の淫戒に関する疑問を解く

一部の方々が『仏説優婆塞五戒相経』中の不淫戒について疑問を抱いておられます。ここにて皆様と共に経文の真意を解き明かし、疑惑を氷解させたいと存じます。

経文原文:若し優婆塞、淫女と共に行淫す。直を与えざる者は。邪淫を犯す。悔うべからず。直を与うれば犯すこと無し。

経文の意味は、優婆塞が娼婦と淫行を行い、対価を支払わない場合は最上品の不可悔罪(懺悔不能の罪)を犯すという点に疑問はありません。疑問はその後半にあります:対価を支払えば罪を犯さない。これを「対価支払いは最上品の不可悔罪を犯さない」と解釈する向きもあります。もしそうであれば、有償の場合には中品の可悔罪(懺悔可能な罪)、あるいは下品の可悔罪を犯すことになります。

ここで疑問が生じます。有償と無償とで何が異なるのでしょうか。いずれも淫行を行ったのに、対価を支払えば罪が軽く、支払わなければ罪が重いというのでしょうか。罪の軽重が金銭の授受に関わるものでしょうか。では人を殺害した後で遺族に賠償金を支払えば、地獄に堕ちずに済むのでしょうか。地獄は金銭で償えるものなのでしょうか。明らかにこれは道理に反します。淫行も同様で、有償無償に関わらず淫行が成立している以上、罪があるならばその軽重が金銭で分かれるはずがありません。金銭で罪の重さが解決するのでしょうか。決してそうではありません。因果は金銭の問題ではなく、心の問題、そして結果の問題だからです。従って、この箇所の正しい解釈は「対価を支払えば罪を犯さない」であり、罪の大小という概念そのものが存在しないのです。

なぜそう言えるのでしょうか。古代インドにおいて娼婦は一つの職業であり、現代で言うところの産業でした。公的に運営される合法かつ規範に合致した業種であり、違法どころか法律の保護さえ受けていました。なぜ合法で保護されたのでしょうか。当時の社会環境に起因します。一方では生活に困窮した女性が生計の手段なく、売春によって生活を支えざるを得ない状況があり、他方では一夫多妻制により妻を得られない男性が娼婦を利用せざるを得ない実情がありました。これらの問題を解決し民衆の生活を安定させるため、公娼制度が成立したのです。

したがって、五戒を受けた優婆塞が対価を支払って娼婦を利用することは、当時の国家法規や民俗に反せず、純然たる商取引として社会に受容・承認される世俗規範内の行為であり、故に破戒とは見做されません。もし社会がこの行為を容認せず、法規が禁止するならば、いかなる高額を支払おうと淫行は犯罪行為となります。

ある行為が邪(よこしま)であるか否かを判断するには、何が正(ただしき)であるかを明確にすれば足ります。正以外は全て邪です。ここで言う正とは、世俗の法規・国情・民俗が共同で許容し、社会全体が是認する行為を指します。ならば邪淫とは、法規や社会規範に合致せず民俗的に承認されない淫行を意味します。有償の淫行が罪となるならば、一夫多妻制自体が不法・不合理となり、複数の女性と長期にわたり関係を持つ優婆塞は犯罪者となります。もし国家社会が一夫多妻・一妻多夫を容認しないならば、複数の妻を持つ優婆塞や複数の夫を持つ優婆夷は全て破戒・犯罪者です。逆に多妻多夫が社会に承認されるならば、有償淫行も罪とは見做されません。

世尊が小乗戒を制定された際、ある程度は世俗の風習や社会規範に順応されました。さもなければ衆生が受け入れず、衆生を導く目的が達成できないからです。例えば仏陀が優婆塞に対し比丘と同様に一切の淫行を禁じ結婚出産を認めなかったならば、欲望の泥沼に浸かった凡夫俗子の中で、果たして誰が仏法修行に踏み切れたでしょうか。たとえ本来そうあるべきだとしても、凡夫が受け容れられない戒律を強いることはできません。そうでなければ仏教徒は悉く出家し僧侶と同様となり、在家と出家の区別そのものが消滅してしまいます。

国情や民俗は社会の発展に伴い絶えず変化します。従って戒律の内実もそれに応じて不断に変化せねばなりません。古代に適した戒律が現代では適用不能ならば、改変を要するのです。古代の一夫多妻制や一妻多夫制に対して、現代では一夫一妻制が合法かつ社会規範・民俗に合致します。この範囲内が正淫であり、これを超えれば邪淫となります。しかし古代には公娼制度も規範・民俗に適った存在であり、対価を伴う娼婦との関係は合法ゆえ邪淫には該当しなかったのです。

経典原文には「有償淫行が最上品の不可悔罪に該当しない」という含意は一切ありません。個人の憶測は仏意を代表するものではありません。経典解釈は常に仏陀の真意を基準とすべきであり、いかに著名な人物の私見であれ、これを基準とするべきではありません。これが仏典講解の根本原則です。仏陀が戒律を説かれた際にも、当時の国家社会の習俗や法制度を踏まえ、社会道徳倫理規範から離れることはありませんでした。これらの内容に変化が生じれば、仏説の戒律も変更を要し、社会法規と矛盾する戒律は廃棄されます。これは戒律経典中で仏陀自ら明示された原則です。例えば古代インドでは女性に地位がなく男性の附属物と見做されたため、夫が出家する際は妻の同意なく妻子を他人に譲り渡せました。しかし現代世界に仏陀が降臨なされたなら、このような行為を決して許容されないでしょう。

——生如法師の開示
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