衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年06月16日    月曜日     第1開示 合計4405開示

六根を総摂してこそ浄念相続して念仏することができる

春のような観行体験:意根の訓練篇を読み終えた後、私は専心念仏の方法で念仏を試みました。足を組んで座り、数珠を回しながら念仏を唱え、目は回る数珠を見つめ、耳は自らの念仏の声を聴き、意識はここに留めて他の念を起こさず、非常に集中しました。約40分ほど念じ終えた後、頭の中でブーンという音が鳴るのを感じました。その後すぐに静座し、坐って間もなく自らの念仏の声、心臓の鼓動、脈拍の音が絡み合い、非常に鮮明で力強く、リズミカルに脳裏深くで響き始めました。この音はあたかも独立した空間を形成し、他の情報を全て遮断し、30分以上も続きました。その後、意識が介入し始めたと感じると、この音は消えました。

お尋ねします:これは意根が念仏している状態でしょうか?このような修行方法は正しいでしょうか?その後この方法で修行を続けようとしましたが、この状態を取り戻せず、原因がわかりません。

回答:もし意根が念仏しているならば、音はなく、心の声もなく、自らが念仏する声を聞くことはありません。一方、意識による口頭の念仏や心の中の念仏は、意識が聞き取ることができます。あなたのこの念仏は意識と意根が共に行っているものです。もし意識だけが念じているなら、意根は縁を攀じ、妄念が生じます。あなたのこの時の念仏の功夫は深くも浅くもなく、中間の過渡期に属します。最終的に手や眼、耳の根が動かなくなり、非常に集中して無音で仏を憶念する時こそが、意根による念仏です。しかしこれも十分に素晴らしく、念仏の功夫は浅いとは言えず、禅定に入り、浅い三昧が現前しています。

もしより純粋に深く念仏したいならば、六根を統摂しなければなりません。いわゆる六根を統摂するとは、前五根・前六識を制御し、意根を一心不乱に念仏に専念させ、音もなく静かにすることです。念仏する時は五根・六識が一切動かず、しかしあなたは手を動かし、身根も動き、眼根も動き、耳根も動いています。これは意根の集中を保つために非常に大きな精力を要し、大変容易ではありません。ですから禅定のレベルはまだ深くないのです。念仏とは心に仏があることであり、数珠は仏ではありません。手で捻ることは念仏に等しくなく、目で見ることも念仏に等しくなく、音声も仏ではありません。耳で聞くことは念仏に等しくありません。補助となる念仏の道具が多ければ多いほど、心も分散します。

また、落日を観想しながら、つま先立ちで身体を鍛える人もいます。心が全く異なる二箇所に分散しているのに、どうして少しの禅定があろうか?一日に複数の法を観る人もいますが、あたかも能力が卓越しているかのようですが、実際は心が非常に散乱しており、観行とは何かを全く理解していません。ほとんどの衆生は六根が六塵の境を掴む習慣に慣れ、放下して専一になることを拒みます。あたかも専一になれば他の塵境を得られないかのようです。塵境を掴む習慣がつき、貪っているのです。そこで六根を同時に動かし、万法を全て掴み、何一つ捨てようとしません。修行の法則に背くならば、それは修行とは言えません。

——生如法師の開示
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