衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年06月15日    日曜日     第2開示 合計4404開示

坐禅のみが心を明らかにし本性を見る唯一の方法なのか?

明心見性は仏となる道のりにおける一つの小目標であり、また出発点でもあります。仏道の修証において、第一歩は小乗の我見断ち、第二歩は大乗の明心見性であり、その後各段階を経て次第に深まり、仏となる境地に近づいていきます。終着駅は仏陀となり、阿耨多羅三藐三菩提を証得することです。

修道の全過程において、最初の我見断ちと明心見性から、諸地の菩薩の修証、そして最終的な仏地見道に至るまで、いずれも異なる次元の智慧の成就です。そして異なる次元の智慧の成就は、異なる次元の観行と参究なくしてありえず、観行と参究によってのみ無明を破り、真理を証得し、世間と出世間の真相を明らかにすることができます。これが智慧を得る唯一の道です。ただし修行の段階が異なれば、観行と参究の対象となる法の次元に違いはあれ、方法と方式は同じです。もちろんこれらの智慧は単に意識の智慧ではなく、主として意根の智慧であり、意根の智慧が主宰し主軸となり、意識がそれに続き、二者が並走します。三度の大規模な識転じて智となる過程を経て、最終的に前五識の智慧も昇華・転換され、第八識も大円鏡智へと転じます。四智がすべて円明となるとき、衆生は即ち三界の至尊となり、仏陀の宝座に就くのです。

異なる次元の観行と参究は、いずれも異なる次元の禅定の中で成就されます。禅定を離れては観行も参究もできず、ましてや三昧や見道は現れません。禅定は見道の必修科目であり避けられない道です。禅定なき仏法の学びは修行とは無縁であり、地図を研究する段階に過ぎず、出発の条件すら備わっていないのです。まして目的地に到達できるはずがありません。

禅定とは即ち心の凝聚力であり、心識が専一で散乱せず、心の力が凝集されて初めて、一切の障難を突破する力が形成され、意根と意識の智慧が湧き出て、五蘊の雲を剥がして真如の太陽を見ることができます。これにより心の地が開け、無明が次第に薄らぐのです。もし心識が散乱し攀縁すれば禅定は得られず、観行と参究を行うための凝聚力を形成できません。ゆえに必ず戒律を保持して心識の行為を規範とし、心が矩を越えず、世間の諸法に攀縁せず、菩提の大道に従って行じることで、定慧が具足します。三昧の真火が無明煩悩の薪を焼き尽くし、三昧の真水が愚昧な心田を潤し、三昧の真風が世間の浮雲を吹き散らし、三昧の真地が無量の福慧功徳を蘊化します。この無量の福慧功徳をもって、次第に衆望の帰する処である仏地の聖城へと登頂していくのです。

よって戒定慧は仏道を修学する三つの無漏学です。もし心に漏れがあれば、三学も欠け、なお不断の精進を要し、円満を期すべきです。そうすると分かるように、明心見性は参禅一法によってのみ達成されます。「参」とは観行参究を指し、「禅」とは大乗真如仏性を指します。戒定慧をもって参禅の全過程を貫きます。今生において参禅参究を学び、観行の功夫を修めれば、来世には師なくして自ら通じ、自然に戒律を保持し、如何に禅定を修めるかを悟り、自然に観行と参究を運用するようになり、見道が期待できるでしょう。私たちは『楞厳経』の二十五聖円通法門の修持や、『華厳経』の善財童子の五十三参からも、最初の我見断ちから等覚菩薩の智慧成就に至るまで、いずれも戒定慧の三無漏学の体現であり、いずれも観行参究の功夫を用い、異なる三昧の境界が現れていることが分かります。では私たちも聖人の修行の方向に沿い、聖人の足跡を踏みながら、勇敢かつ揺るぎなく聖城を目指しましょう!

——生如法師の開示
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