衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
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日常法話

2025年05月18日    日曜日     第1開示 合計4389開示

心地平らかなれば則ち世界平らかなり(持地菩薩の証された円通法門)

楞厳経原文:時に国の大王、仏を筵請し斎を設く。我れ爾の時に平地して仏を待つ。毘舎如来、頂を摩して我に謂わく、心の地を平らぐべし、則ち世界の地、一切皆平らかなりと。我れ即ち心開く。身の微塵を見るに、世界を造る所有の微塵と等しく差別無し。微塵の自性、相触れ摩すること無し。乃ち刀兵に至るも亦触れる所無し。

釈:持地菩薩が無量劫の初めに出家した時、常に道を修め橋を架け、人の通行を助け、終始黙々として報いを計らず大衆に便宜を提供し、有為法の中に熱心にして、心地を悟らざりき。中間に無量の仏の世に出現するを経て、無量の福徳資糧を積み、見道の為に極めて堅固なる基礎を打ち立て、中間にまた度々悟道せしも、悟りは深透ならざりき。

毘舎浮仏に遇うに至り、仏が通る地面を修平するに当たり、仏が頂を摩して加持し、彼に告げて曰く「汝は心の地を平らぐべし。もし汝の心の地が平らげば、則ち世界上の一切の土地は皆平らぐ。十方世界の土地を含む」と。持地菩薩は仏の加持の下に、仏の教えを聞き、頓に心地開通して悟道せり。即時に色身を組成する微塵と、世界を造就する微塵とは、皆同じく差別無きことを見る。これらの微塵の自体性は空にして、形相無く、故に互いに相触れる性質無く、融合せず。乃ち戦場の兵器刀具もこれらの微塵に如何とも為し難く、毫も触れること能わず。

心平らかなれば則ち地平らかなりとは何の意味か。万物は皆心より起こり、平らかならざる心は平らかならざる地を見、世界の起伏を見、天地の悠悠たるを見、善悪是非美醜を見る。もし心を平らげ得ば、何を見るも皆菩提なり、何を見るも皆七大種子の顕現なり、何を見るも皆平等にして差別無し、高低上下無し。故に心の地を平らげれば則ち真相を見、直ちに無上菩提に達するなり。

仏が心の地を平らぐの道理を講じ終えて後、持地菩薩は無量劫に修持して来たる無量の善根と福徳、及び甚深の禅定を以て、即時に三昧の中に証入し、自己の色身中の微塵と、世界を造就する所有の微塵とが、皆平等にして差別無きこと、即ち構成する元素と成分が皆同じく、同要素の組成なることを見る。即時に身と世界無二を証得せり。而して微塵の本質は又空なり。色身と世界を組成する微塵は五大より成り、五大は形相無く、組成する微塵は相有れども、相は却って空なり。

空相は則ち実質ある微塵の説無く、互いに触れ合い組み合うこと能わず。然らば身と身の間には妨げと障碍無く、互いに重なり合わず、互いに衝撃せず、空と空の交融の如し。身と世界の間、世界と世界の間も互いに妨げ阻害せず、互いに重なり衝撃せず、空と空の交融の如く、了って相触れず。既に然り、無量の神通は即ち現じ、障碍無く、身は一切の境に入ること虚空に入るが如く、須臾と毫も費やさず。

原文:我れ法性に於いて無生忍を悟り、阿羅漢を成ず。心を回して今菩薩位に入る。諸の如来の妙なる蓮華を宣べ、仏の知見の地を聞く。我れ先ず証明して而して上首と為る。仏円通を問う。我れ諦観を以てす。身界二塵、等しく差別無し。本の如来蔵、虚妄塵を発す。塵銷えて智円くなり、無上道を成ず。斯れ第一と為す。

釈:持地菩薩曰く「我れ微塵の法性において無生忍を悟り、阿羅漢を証成せり。心を回入して大乗菩薩道に入り、諸仏の宣演する微妙なる蓮華経、仏の具足する見地を聞く。我れ先ず仏の説法する所を証明し、此を以て第一と為る」と。仏の問う「我が修する円通法門は何ぞや」と。我は仔細に色身と法界の二種の微塵を観察し、皆同じくして差別無く、本来の如来蔵より生発せる微塵なることを観ず。三昧の中に微塵は心中より消散して存在せず、智慧は円満を得、無上道果を成就せり。此れ我が第一円通法門なり。

持地菩薩の此の段の自述は、また修行成就の鍵なり。持地菩薩は我が仏の講ずる微妙甚深の法理を聞きて後、親しく実践し、終に如実に仏法の真実性を証明せり。只だ仏の説法を受くるに止まるに非ず。信と実行とは二つの異なる層次なり。只だ信ずるは未だ仏陀の真の弟子に非ず、仏陀の講ずる法を実践するこそ真に仏陀を孝敬し、真に仏意を懂れ、真の仏子なり。若し修行せざれば、信に何の用かあらん。学理を学ぶに何の用かあらん。

我らは上述の道理を知れど、身心と世界は皆無碍なりや。毫も無碍ならず、障碍は仍お障碍、業障は仍お業障、煩悩は仍お煩悩、無明は仍お無明、事に益無く、事に補う無し。此の理に依り、着実に修行し、微塵無二を証得して後、其の障碍は初めて解除され、業障と煩悩は初めて消除され、身心世界は初めて円融し、無量の三昧・神通道力は初めて出現す。理は実践を指導する為のもの、若し実践せんと欲せざれば、理は山の如く積もるとも、事に益無し。知識は人を救う能わず、実践と実証こそ人を水火より救うなり。故に知識の量を以て能事と為す者は早く醒むべし、美夢を為すこと莫れ。知識若し修行力に転化せざれば、有ると無きとは差別無し。

或る人、若干年の間中、絶え間無く各種の表を我に発し送る。誰が帰納し総括し整理したるか知らぬ楞厳経の大綱なり。若干年も大綱の上に文章を為し、皆楞厳経の脈絡を研究し、終始肯えて楞厳経の講ずる方法に遵い自己の実修を指導せず、理論を実践に付するを肯えず。此の様なる研究は、最多でも学者に当たるのみ、理論研究員に当たるのみ。学者と研究員とは何ぞや。文字を玩弄する外は何者にも非ず。仮に文字の中に再び十億年流転すとも、仍お何者にも非ず。


——生如法師の開示
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