楞厳経原文:时国大王。筵佛设斋。我于尔时。平地待佛。毗舍如来。摩顶谓我。当平心地。则世界地。一切皆平。我即心开。见身微尘。与造世界。所有微尘。等无差别。微尘自性。不相触摩。乃至刀兵。亦无所触。
解釈:持地菩薩は無量劫の前に最初に出家した時、よく道路を整え橋を架けて人々の通行を助け、終始黙々と見返りを求めず大衆のために便宜を提供し、有為法の中に熱心でありながら、心地を悟ることができませんでした。その間に無量の仏が世に出現するのを経て、無量の福德資糧を積み重ね、見道のために極めて堅固な基礎を築きましたが、その途中で何度か悟道したこともあるかもしれませんが、悟りが十分に深く徹底していませんでした。
毗舎浮仏に出会うまで、仏のために通過する地面を平らに整えていたところ、仏は頂を摩して加持し、彼に告げて言いました。あなたはあなたの心地を平らかにすべきである、もし心地が平らになれば、世界のすべての土地はみな平らになるであろうと、十方世界の土地も含めて。持地菩薩は仏の加持のもと、仏の教えを聞いて、たちまち心地が開けて悟道し、即時に色身を構成する微塵と、世界を造る微塵が、まったく同じく差別のないものであることを見ました。これらの微塵の自体性は空であり、形も相もないので、互いに触れ合う性質がなく、互いに融合せず、ひいては戦場の兵器や刃物もこれらの微塵に対してはなすすべがなく、少しも触れることができません。
心が平らになれば地が平らになるとはどういう意味でしょうか。万物はすべて心より起こります。平らでない心は平らでない地を見、世界の浮き沈みを見、天地の悠久なるを見、善悪是非美醜を見ます。もし心を平らにすることができれば、何を見てもすべて菩提であり、何を見てもすべて七大種子の顕現であり、何を見ても平等で差別がなく、高下上下がありません。したがって心地を平らにすれば真相を見ることができ、無上菩提に直達できるのです。
仏が心地を平らにする道理を説き終えた後、持地菩薩は無量劫に修持してきた無量の善根と福德、および甚深の禅定によって、直ちに三昧 (samādhi) に入り、自分の色身の中の微塵と、世界を造るすべての微塵が、みな平等で差別がないこと、すなわち構成する元素と成分が同じで、同一の要素から組成されていることを見て、直ちに身と世界が無二であることを証しました。そして微塵の本質はまた空であり、色身と世界を構成する微塵は五大から構成され、五大は形も相もなく、組成する微塵には相があるけれども、その相は空です。
空相であれば実質のある微塵というものはなく、互いに触れ合い組合わることができないので、身と身の間には妨げも障害もなく、互いに重なり合わず、互いに衝突せず、空と空の交融のようです。身と世界の間、世界と世界の間もまた互いに妨げたり阻んだりせず、互いに重なり衝突せず、空と空の交融のようで、全く触れません。そうであれば、無量の神通が現れることができ、障害がなく、身はあらゆる境の中に入ること虚空に入るが如くで、須臾たりとも毫も労しません。
原文:我于法性。悟无生忍。成阿罗汉。回心今入。菩萨位中。闻诸如来。宣妙莲花。佛知见地。我先证明。而为上首。佛问圆通。我以谛观。身界二尘。等无差别。本如来藏。虚妄发尘。尘销智圆。成无上道。斯为第一。
解釈:持地菩薩は言いました。私は微塵の法性において無生忍を悟り、阿羅漢を証成しました。心を回して今大乗菩薩道に入り、諸仏が微妙な蓮華経を宣演するのを聞き、仏の具足した見地について、私は先に仏の説かれる法を証明し、これによって上首となりました。仏が私の修めた円通の法門は何かと問われるので、私は色身と法界の二種の微塵を諦観しましたが、みな同じくして差別がなく、本来の如来蔵 (tathāgatagarbha) から生発した微塵です。三昧の中で微塵が心から消散して存在しなくなると、智慧は円満となり、無上の道果を成就しました。これが私の第一の円通法門です。
持地菩薩のこの自述もまた、修行成就の鍵です。持地菩薩は我が仏の説かれた微妙甚深の法理を聞いた後、自ら実践し、最後に仏法の真実性を如実に証明したのであって、仏の説かれる法を信受しただけで止まることはありませんでした。信と実行は、二つの異なる階層です。信じるだけではまだ仏陀の真の弟子ではなく、仏陀の説かれる法を実践することこそが真に仏陀を孝敬することであり、真に仏意を解することであり、真の仏子なのです。もし修行しなければ、信じて何の用があるでしょうか。理論や知識を学んで何の用があるでしょうか。
私たちは上述の道理を知りましたが、身心と世界は無碍になったでしょうか。少しも無碍にはなっていません。障害は依然として障害であり、業障は依然として業障であり、煩悩は依然として煩悩であり、無明は依然として無明であって、何の役にも立ちません。この道理に依って着実に修行し、微塵が無二であることを証して初めて、それらの障害は解除され、業障と煩悩が消滅し、身心世界が円融となり、無量の三昧 (samādhi) と神通道力が現れるのです。理は実践を指導するためのものであり、もし実践したくなければ、理が山のように積み重ねられても、何の役にも立ちません。知識は人を救うことができず、実践と実証によってのみ人を水火から救うことができるのです。したがって知識量を得意とする人はとうに目を覚ますべきであり、美しい夢を見るのはやめるべきです。知識が修行力に転化できないなら、あってもなくても差はないのです。
ある人は何年もの間、絶えずさまざまな表を私に送ってきました。誰が帰納・総括・整理したのか知らない楞厳経の大綱ですが、何年も大綱上で文章を弄し、楞厳経の脈絡ばかりを研究していて、従来から楞厳経の説く方法に従って自らの実修を指導することを肯んじず、理論を実践に移すことを肯んじません。このような研究は、せいぜい学者になれるだけで、理論研究員になれるだけです。学者や研究員とは何でしょうか。文字を弄ぶことしかできず、何者でもありません。たとえ文字の中でさらに十億年流転しても、依然として何者でもないのです。
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