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日常開示

2025年05月15日    木曜日     第1 回の開示 合計4387回の開示

一切の観行の要諦は唯観無縁にあり(意根訓練篇)

『十往生経』原文:その時、阿難仏に白して言う。未だ身を観るの法を聞かず。その事いかん。唯願わくはこれを説きたまえ。仏阿難に告げたまう。それ身を観るの法は、東西を観ず、南北を観ず、四維上下を観ず、虚空を観ず、外縁を観ず、内縁を観ず、身色を観ず、色声を観ず、色像を観ず。ただ無縁を観ず。これ正真の身を観るの法なり。この身観を除きて、十方に諦求すとも、在在処処に、更に別法なくして解脱を得る。

釈:阿難が仏に身を観る方法を請い、いかに身を観るべきかを問う。仏は答えられた:身を観る法とは、身を観る際に東西南北・四維上下を観ず、虚空を観ず、身外の法を観ず、身内の法を観ず、身体の色相を観ず、容姿や音声を観ず、色身の相貌を観ないことである。色身をただ単純に観察し、観察に関係ない法に縁取らず、意識で思惟・分析・想像・推測・推理・判断することを排する。ただ観じて縁取らぬことが、真実の観行法である。この身観法を除いて、十方世界を探求しても、他の解脱法は得られない。

「唯観無縁」の四文字は一切の観行功夫の核心であり、極めて大きな情報量を含む。身観に関係ない多くの操作を排除しており、それらの操作は全て意識による思惟分析の方法であって、直観・正観・純粋な観ではない。意識は方々に縁取って東西を思い、南北を考え、空想を巡らせるが、皆身観とは無関係で解脱の道ではない。これらの意識作用を排することが意根の直観であり、真の観行であり、四念処観に叶うもので、楞厳経二十五聖の観行法であり、一切の聖賢の観行法であり、諸仏菩薩の観行法でもある。

方法は既に明らかだが、ある者は依然として功夫を用いられない。その一因は意識を使い慣れすぎて、意識を用いずに如何に観るかを想像できず、意根の直観を如何に行うかが分からないためである。意識の機能を離れると途方に暮れる。これ以上示す術はなく、ただ自ら絶えず細やかに琢磨し修練するのみである。修練過程では意識で思惟理解することは可能だが、理解し尽くした後はこれに依って功夫を実践し、観行を修めるべきである。

原文:仏また阿難に告げたまう。ただ自ら身を観よ。善力自然なり。正念自然なり。解脱自然なり。なんとなれば、譬えば有人あり。精進直心にして正解脱を得る。かくの如き人は、解脱を求めずして、解脱自ら至る。

釈:仏は阿難に言われた:ただ直下に身を観じなさい。善法の力は自然に生じ、正念も自然に現れ、心の解脱も自然に到来する。なぜか。譬えば、精進直心で修行する者が正解脱を得るように、そのような人は解脱を求めなくても、解脱の果報が自然に訪れる。

仏の説かれる修行法は極めて明白で、ただ観じ、直ちに観じ、妄念を交えず、余計な解釈を加えず、曲折を設けずに用いること。四念処経の教える如実観の如く、善法力が自然に生起し、善根が成熟し、暖・頂・忍・世第一法が自然に現前する。心に正念が具わり、四聖諦の理に叶えば、身心自然に解脱する。心は解脱を求めなくても、解脱は自然に成就する。

これは意根による観行法であり、一切の観行はこれに通じ、凡夫地から等覚地まで皆このように観行して証道する。華厳経の善財童子が五十三人の善知識を参訪し、各々の法門を直観三昧で修め、等覚位に至ったように、我々も意識の妄分別を加えず、直観法に依るべきである。道果は意識で得るものではなく、意根の直観によって得られる。故に仏教に意識による証果・明心見道の説はなく、意識を用いた方便は真実の解脱果を得られない。


——生如法師の開示
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