衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
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日常法話

2025年05月14日    水曜日     第1開示 合計4386開示

運動選手はどのように意根を訓練するのか?(意根訓練篇)

選手が試合中に発揮しているのは、意根の技能と働きです。例えば各種の競技スポーツでは、スピードを競い、技術を競い、反応力を競い、力を競うために、全神経を集中させ、精力を高度に集中し、雑念なく心を澄ませる必要があります。このとき、一つ一つの動作、対戦相手に対応する一瞬一瞬に、意識で思考する時間などあるでしょうか。まったくありません。さもなければ、どう対応するかを考えようとした瞬間に、相手の技はすでに繰り出し終えており、自分は一瞬で相手に打ち負かされてしまうでしょう。試合場では時間が最も貴重であり、時間が勝敗を決めます。意識で対応策を考えているようでは、相手はあなたに考える時間など与えず、一出手であなたに勝ち、あなたを超えてしまうのです。

選手には思惟して対応する時間がありません。それならば、すべての臨機応変の対応は、意根の機能の発揮なのです。意根は声色もなく、音もなく、整然と一つ一つの動作を完成させ、思いがけない攻撃や挑戦に一つ一つ対応していきます。それは完全に日頃の訓練の経験に基づき、条件反射を形成しているのです。いかなる生命体の条件反射活動もすべて意根の反応であり、意識が発揮される余地はありません。条件反射とは意根の習性・習慣であり、意根が長期にわたって学び薫習して形成した一つのメカニズムです。意識はこれを理解できず、なすすべもなく、ただ全く服従し、随順するしかありません。

意根はどのように条件反射を形成するのでしょうか。それは日頃の厳しい訓練の結果です。訓練して習慣となり、まるで筋肉の記憶を持つかのようになり、いかなる動作や技も、頭を経由する必要がなく、直接やって即座に完成するのです。つまり、意識による思惟という道を通らず、このときの意識は思惟のために使われるのではなく、ただ意根を導く役割を果たし、意根をある場所・ある法に位置づけるだけなのです。同時に、心にはただ一つの「知」を帯びるだけで、それだけのことです。その他の活動はすべて余計であり、必要もなく、そもそも使えません。使えば事を損ない遅らせ、試合場では必ず負けるのです。

日頃の訓練が十分でなく、経験が不足しているときにのみ、意識を使って戦略・戦術や対応方法を考えますが、それでも間に合うのでしょうか。戦場で敵の刀槍剣戟があなたに向けられているとき、あなたはまだ頭を掻いて対策を考えられるでしょうか。意識の思惟・分析は、試合の後、戦いの後に使うものであり、後になって経験を総結する際に役立つものです。訓練が進行中の間にはほとんど使えません。どのように訓練するかを知った後は、ただその方法に従って訓練すればよいのです。訓練が熟し、技術が合格して初めて試合に参加できます。試合は訓練によって身につけた技術・技能によるものであり、意根の熟練度によるものであって、幸運によるその場しのぎの発揮や、その場で対策を考えることによるものではないのです。

では、意根は緊張した対応の過程において思想活動を持つのでしょうか。もちろん思想活動はあり、しかも非常に速く、音もなく行われます。五遍行心所法が環環と連鎖するだけでなく、五別境心所法もその後に緊随して絶えず現れます。最も際立つのは定心所法と慧心所法です。定がなければ集中できず、少しでも気を逸らして雑念が生じれば、動作は錯乱し、相手に隙を突かれて、試合は敗北します。このとき、意識の慧はほとんど力を発揮できず、すべて意根の慧に頼ることになります。意根に慧がなければ、手忙脚乱となり、正常に発揮して各種の状況に対応できず、試合など何を競うというのでしょうか?

私たちが仏法を実修し観行するときも同様です。意識は意根を観行すべき法の上に位置づけ、観行対象に対する「知」を帯びて、法の上に定まります。その他はすべて意根の現量観察です。例えば一枝の花を観察するなら、ただ花を見つめて観察すればよく、見ていればよいのであって、意識を使って分析したり想像したりする必要はありません。この花の品種、産地、形態や色彩はどうか、美しいか美しくないか、また咲くかどうか、まだ生育できるかどうか、もし誰それに贈ったらどうなるか、などといった雑多な思いは、すべて断ち滅ぼさなければなりません。まして、学んだ理論に基づいて強引に主観的に結論を導き出すなどしてはなりません。すなわち、この花は生滅するものである、虚幻のものである、空である、如来蔵が変幻して現したものである、如来蔵が四大・五大の種子を用い、何々の縁に依って生じたものである、などと。観さえできないのに、どうして結論が出るのでしょうか。こんなに多くの事をしても、何の益があるのでしょうか?

ただ意根で観すればよいのです。何があるかを観るだけで、想像や推理や分析をしないことです。所縁の対象の生住異滅の現象を観察し明らかにするまで続け、眼前の法にもはや真実性がなくなり、三昧 (samādhi) が現れたとき、空と無我を証得するのです。では、意根の慧力 (prajñā-bala) は一体どれほど強いのでしょうか。まだあの慧の劣る意根なのでしょうか? 慧が劣っていて、どうして観行 (vipaśyanā-caryā) ができ、どうして法の生住異滅を知ることができ、どうして証道できるでしょうか。このときの意根の心所法に何があり何がないかは、もうお分かりでしょう?


——生如法師の開示
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一切観行の核心は唯観無縁にあり(意根訓練篇)

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