スポーツ選手が試合の場に臨む際、発揮されるのは意根の技能と機能です。例えば、各種競技において速度、技術、反応力、力を競う場合、全てに集中力を要し、精神を一点に集め、雑念を払う必要があります。この時、一連の動作や相手の攻撃に対する瞬間的な対応に、意識で思考する余裕などあるでしょうか。全くありません。もし思考しようとすれば、相手の技は既に決まり、一瞬で敗北を喫してしまうでしょう。試合場では時間が最も貴重で、時間が勝敗を分けます。意識で対応策を考えている余裕など、相手は与えてくれません。一瞬の隙が命取りとなるのです。
選手に思考する時間がない以上、全ての臨機応変は意根の機能によるものです。意根は静かに、整然と、一つひとつの動作を完遂し、予期せぬ攻撃や挑戦に対処します。これは平素の訓練によって培われた条件反射によるものであり、あらゆる生命体の条件反射活動は意根の反応です。意識の介入する余地はありません。条件反射は意根の習性であり、長年の修練によって形成されたメカニズムです。意識はこれを理解できず、ただ従順に従うほかありません。
意根が条件反射を形成するのは、日常の厳しい訓練の結果です。習慣化され、筋肉の記憶のように、どのような動作も思考を介さず即座に実行できるようになります。つまり、意識の思考回路を経由せず、この時の意識は思考ではなく、意根を特定の対象に導く役割を果たします。同時に心にはただ「知る」という一点のみが存在し、他の活動は不要です。余計なことをすれば失敗を招き、試合に負けることになります。
平素の訓練が不十分で経験が浅い場合のみ、意識で戦術や対応策を考えますが、果たして間に合うでしょうか。戦場で敵の刃が目前に迫る中、のんびり対策を練る余裕などあるでしょうか。意識による分析思考は試合後や戦闘後に用いるもので、経験を総括する際に役立ちます。訓練中もほとんど必要なく、方法を理解したらひたすら実践あるのみです。熟練し技術を習得して初めて試合に臨むのです。試合は訓練で培った技術と意根の熟練度がものをいい、運任せの出たとこ勝負ではありません。
では意根が緊迫した対応をしている際、思考活動はあるのでしょうか。もちろん存在し、極めて迅速で静かなものです。五つの遍行心所法が連鎖し、五つの別境心所法も続いて現れます。特に顕著なのは定心所と慧心所です。定がなければ集中できず、少しでも注意が散漫になれば動作が乱れ、相手に隙を与え敗北します。この時、意識の慧はほとんど役に立たず、意根の慧に依存します。意根に慧がなければ対応が乱れ、試合になりません。
仏法の観行実修においても同様です。意識は意根を観察対象に定位させ、対象への「知」をもって法に定めます。残りは全て意根の現量観察です。例えば一輪の花を観察する際、ただ花を見つめ続ければ良いのです。品種や産地、形態、色彩、美醜、開花の可能性など、雑多な思考は全て断ち切りましょう。ましてや学んだ理論を根拠に「この花は生滅する幻影であり、如来蔵が四大種を以て縁起したものだ」などと結論づけてはなりません。観察もままならないのに、どうして結論が出せるでしょうか。
意根による観察のみを行い、あるがままを見るのです。推測や分析はせず、対象の生住異滅の現象を明らかに観察し続けると、眼前の法の実在性が消え、三昧が現前して空と無我を証得します。では意根の慧力はいかほどか。依然として慧が劣ったままであれば、どうして法の生住異滅を観察できましょうか。どうして証道できましょうか。この時、意根の心所法の有無は明らかではございませんか。
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