我執を断じて初果を証得した後は、再び三悪道に堕ちて苦報を受けることがありません。なぜでしょうか。その心が変化したからです。心が三悪道の業と相応しなくなったため、三悪道の業行を造ることがなくなり、したがって三悪道に堕ちて苦しむこともなくなります。無我を証得した心は空じられ、心が空じられた者はもはや三悪道の業行を造ることができません。三悪道の業行とは何でしょうか。五戒に違犯する業行であり、十善業に違背する業行です。五戒を受持して初めて人身を得、三悪道の衆生身を受けることがなくなります。十善を受持して初めて人界・天界の身を得、三悪道の衆生身を受けることがありません。我執を断じた証果者は粗重な煩悩を断除し、心行が必ず五戒十善と相応するため、三悪道の業と身を免れるのです。
ではこの我執を断じた心、五戒十善と相応する心、三悪道の業と相応しない心とは、いかなる心でしょうか。意識はもちろんこのような心ですが、最も重要な意根こそが絶対にこのような心でなければなりません。しかも意根は無間断の心であり、我執を断じた後に初めて、意根は無間断にヴィパッサナー(観)とシャマタ(止)の双運道の功徳を具えます。睡眠中も昏倒中も臨終時も中有の時も、常に我執を断じた功徳を身に具え、この功徳によって受生・投胎・入胎します。したがって意根がどのような心行を持ち、どのような業を有するかによって、相応する胎身が現れるのです。三悪道に堕ちないためには、意根が我執を断じ、諸功徳を具える必要があります。意識における聞法の智慧、推理の智慧、臆測の智慧、情思意解の智慧だけでは、粗重な煩悩の現行を断除することは絶対に保証できず、三悪道の業行を造らないことの保証も、五戒十善に違背しないことの保証も、したがって命終後に三悪道に堕ちないことの保証も得られないのです。
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