学生が学習する段階では、知識理論を吸収する段階であるため、意識を多く用います。学習が終わると実践段階に入り、この段階では理論を実際の操作に応用し、個人の真の能力を発揮する段階となり、この時は意根が多く用いられます。もし意根をうまく活用できなければ、人から「頭でっかち」や「学者バカ」と嘲笑され、学問はあっても才能がなく、真の実力がなく、学んだことを活用できない者と見なされます。
学生が幾何学の問題を解く際、明らかに意識による推論を用いています。結果と答えが存在するため、答えに向かって推論を進めればよいからです。集中力の優れた学生は、わずかに意根の思考作用を用いることもありますが、多くはありません。もし問題に答えが存在しない場合、意根の思考作用をより多く用いる可能性があり、正しい結論を導き出せば学生の真の知恵が示されるかもしれませんが、意識による推論の要素が多くを占める可能性も排除できません。幾何学問題の推論過程においては、一定の原則と法則に従うことができ、それに依存すればするほど意識の作用が大きくなり、意根の作用は小さくなり、知恵は浅くなります。
同様に、観行参究の過程において、他人から与えられるヒントが多ければ多いほど、意識を多く用いることになり、意根の使用は少なくなり、知恵は浅くなります。もし完全に他人のヒントに依存し、口頭で聞いたことをそのまま受け入れるのであれば、全て意識の作用であり、意根は全く働かず、それゆえ意根には全く知恵がなく、現世も来世も解脱の功徳を享受できません。一方、何のヒントもない状態で完全に自力で参究した場合、最も優れた能力を発揮し、最も深い知恵を得ます。逆に、他人からの援助が大きければ大きいほど、自身の能力は小さくなり、何の助けもなく問題を解決すれば、全ての知恵は自身のものとなります。独覚仏が山中で十二因縁を参究し、法を証得する前後の知恵は、阿羅漢が及ぶところではなく、凡夫は言うまでもありません。阿羅漢には仏陀と仏法に依存できるため、開発される知恵には限界があり、独覚仏の深遠で細やかな知恵には及びません。
外部の縁に依存すればするほど、意根の使用は少なくなり、能力と知恵は劣ります。仏法を学ぶ者の中には、常に様々な援助を求める者がいますが、得る援助が大きければ大きいほど開発される知恵は少なくなり、享受できるものも小さくなることを理解していません。問題に遭遇した時に自ら努力し、頭脳を働かせて得たものこそが最大の知恵です。常に教えを尋ねることを好む者は知恵が浅く、自力が不足し、独立して問題を解決する能力がありません。悟りを求めるために常に他人の助力を求める者がありますが、その助力によって得られた悟りは結局誰のものと言えるでしょうか?それは誰の知恵なのでしょうか?仏法における知恵も、世俗法における知恵も、全ては自力を尽くした者が得るものであり、他人に頼るより自分に頼るべきなのです。
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