衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2025年01月25日    土曜日     第1 回の開示 合計4318回の開示

理法による対比と想像は実証に等しからず

菩提の意味を総括しますと、仏道において具足すべき一切の仏法を指し、その階位は浅きより深きまで多層にわたります。最初は我見を断つ初果から俱解脱の四果に至り、次に大乗の明心によって菩提の根本である如来蔵を証得し、ついに仏地の四智円明に至るまでです。如来蔵を証得することは即ち菩提を証得することを意味しますが、全ての菩提を証得したことにはなりません。如来蔵の体性は深広無辺であり、これを悉く証得してこそ阿耨多羅三藐三菩提を証得したと言えます。故に証得はあくまで始発点に過ぎず、無量の法を一つ一つ証得して初めて菩提が円満するのです。

仮に如来蔵が遍く参与し、一切法が如来蔵であり、全体即ち真如であるという理論を書物から知識として得たに過ぎず、意根に関与せず、自ら実際に証得した結論でないなら、それは単なる言葉の学びに過ぎません。実証を伴わぬ理解は表面的なものに留まり、其の然る所以を知るに至らず、まして生死の問題を如何に解決できましょうか。もし眼界を一条開いて内を窺い、ほんの一片でも真相に触れることができれば、微かな真実を知ることができるのです。

或る者は全体即真如の理論を知るや、小賢しい解釈を弄し「これも真如、あれも真如」と想像を逞しくし、自ら悟りを開いたと称して人に印可を求めます。

もし如来蔵が如何に具体的に存在し顕現するかを観ることができれば、それは大変優れたことで真の開悟と言えます。仏法を学ぶにはまず我見を断つことが肝要です。五陰無我の理を徹底的に究明した後、明心は難事ではなくなります。譬えば電線中の電流を直接見ることはできず、その応用(炊飯器の作動や洗濯機の稼働)を通じて知るように、触れて痺れを覚えても電流を証得したことにはなりません。洗濯機の動作から電流の存在を理論的に推察するのは、未だ証得の域に達していないのです。

——生如法師の開示
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識と意根における智慧の消長

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