修行の究極は意識を打ち殺すのか、それとも意根を打ち殺すのか。意識を打ち殺すことが因であり、意根を打ち殺すことが果である。意根を打ち殺すことが最終目的ではあるが、着手すべきところはやはり意識から始めなければならない。意識は毎晩死んでいるが、植物状態の人間の意識もほぼ常に死んでいる。それでも後世において三悪道を免れず、ましてや六道輪廻はなおさらである。これは何を意味するのか。生死の大権は意根が掌握していることを示している。故に修行は必ず意根にまで及ぼさねばならず、意根を理解し、意根を調伏し、意根の無明を断じなければならない。意根の無明を滅するには、いかに実践すべきか。無明は一切の煩悩心所法を生じさせる。では煩悩心所法は主に誰の心所法なのか。意根の無明によって生老病死の苦が生じるが、どの煩悩心所法が意根に具わらないのか。もし意根が一切の煩悩心所法を具えていないならば、修行は実に容易で愉快なものではないか。
ある人々は意根を不善不悪であると主張するが、それならば我々は何を修する必要があろうか。如来蔵は不善不悪である故に、如来蔵は元来修行せず、全く修行の必要がない。何を修するのか。何を改めさせるのか。それには無明もなく、悪もなく、邪もない。もし如来蔵が修行するならば、おそらく邪に陥り、歪んでしまうだろう。善悪は皆無明であり、無明があるからこそ善と悪が存在する。如来蔵に無明がない故に、善業も造らず悪業も造らず、縁に随って対応し、心を用いるところがない。無明があるからこそ瞋心が生じ、殺業を造る心が起こり、無明があるからこそ愚痴が生じ、殺業を造るのである。
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