衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年12月23日    月曜日     第1開示 合計4302開示

修行とは何を修めるのか

修行の最終目的は意識を打ち殺すことか、それとも意根を打ち殺すことか。意識を打ち殺すことが因であり、意根を打ち殺すことが果である。意根を打ち殺すことは最終目的ではあるが、着手点はやはり意識から始めなければならない。意識は毎晩死んでおり、植物状態の者の意識もほぼ常に死んでいるが、それでも来世では三悪道を免れず、ましてや六道輪廻である。これは何を物語っているか。生死の大権は意根が掌握していることを示しており、したがって修行は必ず意根にまで落とし込み、意根を明らかにし、意根を降伏させ、意根の無明を断じなければならない。意根の無明を滅するには、いったいどう実践すればよいか。無明は一切の煩悩心所法を生み出すが、では煩悩心所法は主に誰の心所法か。意根の無明によって生老病死の苦が生じるが、意根にはどの煩悩心所法が具わっていないのか。もし意根に一切の煩悩心所法が具わっていないなら、修行はとても楽で愉快なものではないか。

意根は不善不悪であると強弁する者もいるが、それならば我々は修行する必要があるのか。如来蔵は不善不悪であるため、如来蔵は修行したこともなければ、修行する必要もまったくない。何を修するのか。何を改めさせるのか。如来蔵には無明がなく、悪もなく、邪でもない。もし如来蔵が修行するならば、おそらく邪に修め、歪んでしまうだろう。善も悪も無明であり、無明があるからこそ善悪が生じる。如来蔵には無明がないため、善業も造らず悪業も造らず、縁に随って応じ、心を用いることがない。無明があるからこそ瞋心が生じ、殺業を造ろうと心が動き、無明があるからこそ愚痴が生じ、殺業を造るのである。


——生如法師の開示
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意根の強さ

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意根の十二因縁における決定的な役割

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