論中に説かれるには、勝解とは境に対して印可することであり、境が境であることを知り、境が境であることを信じ、誤りなく疑いがないことを指す。例えば心が花や月に対面する時、勝解によってこれを花や月と認識し、疑うことなく、自らの理解を信じ、容易に動かされない。これが勝解である。「勝」の字は境に対する理解の深さを表し、境の真実性に近づいていることを示す。しかしながら、これはまだ最終的な完全な確信ではなく、境の真実性を証得したわけでもない。故にその後には慧心所の法があり、慧心所の法が現前した時に初めて境を証得し、境を確信し、花や月の境を完全に知ることができるのである。
勝解は「其の然るを知る」ことに相当し、慧は「其の然る所以を知る」ことに相当する。一つは解であり、一つは証である。勝解は浅い慧であり、慧の基礎である。慧は究極的・最終的な認知である。仏法の修証において、勝解心所の法は解悟に相当し、慧心所の法は証悟に相当する。解悟を証悟に転じるには、念心所の法と定心所の法という二つの段階を経て、理解した法を心にしっかりと刻み込み、念々忘れず、禅定を修め、心念をこの法に定めて絶え間なく参究し、最後に心開して確信し、大智慧が現前して初めて証悟に至るのである。
花や月を勝解することは世俗の事柄であり、さほど難しくはないようである。世俗法の理念と知識を具足し、六根が正常であれば、遮障がなければ花や月を勝解する。その中には比較的浅い解慧も含まれている。一方、仏法において勝解の境地に達することは容易ではない。仏法に関する知識と理念を具足し、三十七道品を修行して業障の遮障を軽減して初めて勝解できるが、証得まではなお相当の道程があり、一定の因縁条件を整えてこそ円満に証得できるのである。
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